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1ユーロの守護神

「1ユーロおじさん」に出会ったのは、大学二年生の夏だった。
スペインのマドリードからバスで二時間ほどの距離に位置する、クエンカの語学学校に通っていたある日のこと。

同じクラスの女の子から、売店の前にいたおじさんに1ユーロをたかられたという話を聞いた。
学校近くの売店にお菓子を買いに行った彼女は、店の前に立っていたおじさんに「店に入りたくば1ユーロを出せ」と執拗に絡まれ、仕方なく1ユーロ渡して店に入れてもらったという。

「私もたぶん同じおじさんに1ユーロ払ったことある」
「私も一昨日足止めされた。無視しようとしたけどドアの前で行く手を塞がれたから、結局お店に入れなくって」

彼女の愚痴をきっかけに、次々に明らかになる「1ユーロおじさん」による被害。
なんと、私以外のクラスのみんなが一度は出会ったことがあるらしい。
私たちはアジア圏から来た、まだスペイン語がいまいち覚束ない女子学生。
そんな語学力のひよっこを狙うなんて、なんて狡猾な野郎なんだ。

不幸なことに学校は小高い丘の上にあり、その売店くらいしか食べものを売っている店はなかった。
だから授業の合間にお腹が空いてしまったら、私たちはそこへ行くほかなかったのだ。
1ユーロおじさんがどこから来ているのかは知らないが、この店に目をつけたのはうまい。
毎日丘に登って1ユーロせびるなんて、その並外れた体力も忍耐力も別のことに回した方がいい気がするけれど。

私はホストマザーが毎朝りんごを持たせてくれていたため、それまで売店に寄ったことはなかった。
けれどついにある日、1ユーロおじさんと対峙しなくてはならなくなってしまった。
夜遅くまでワインを飲みながらバラエティー番組で馬鹿笑いした翌朝、私とホストマザーは揃って大寝坊したのだ。
慌てて身支度して朝食を抜いて学校まで走り、なんとか始業時間に滑り込む。
ホッと安心したのもつかの間、りんごを忘れたことに気が付いた。

朝食を抜いたうえりんごまで抜いたらもう、とても家まで帰れない。
だって、学校から家まで歩いて一時間弱かかるのだ。
バスに乗ればもっと早く帰れるかもしれないが、乗り間違えると面倒だ。

仕方なく授業の休憩時間に売店をそっと窺うと、いた。
1ユーロおじさんらしき小柄な中年男性が壁にもたれて立っている。

「Hola(やあ)」
慎重に入り口に向かうと、おじさんがさっそく声をかけてきた。
スナフキンみたいなフェルト帽が、日に焼けた鷲鼻によく似合っている。

「Hola」
愛想よく返してゆったりとした足取りで相手の油断を誘い、ドア付近で一気に足を早める。
ドアに手をかけて「やった、勝った!」と喜んだ瞬間、おじさんの腕ががっとドアの前に割り込んできた。
少女漫画風にいえば、壁ドンというやつである。
微塵もときめけないけれど。

私がじっとりとおじさんをにらむと、彼も同じ目つきで私をにらんでいた。
かくして、1ユーロを賭けた戦いの火ぶたが切って落とされた。

「Guapa,dame un euro.(美人さん、1ユーロをくれないか)」
さすがラテン系、こんな状況でもリップサービスを忘れない。
そしてちゃっかりと1ユーロをせびってくる。

「Lo siento, tengo prisa.(ごめんなさい、急いでいるので)」
ガイドブックに載っていたナンパの断り方をそのまま使い、彼の腕をすり抜けようとする。
すると彼は、「やーやーやーやー」と大声を上げた。
文句を言おうとすると彼は胸の前で手を合わせて「Gracias, gracias(ありがとう、ありがとう)」と遮り、「Un euro, por favor(1ユーロをおくれよ)」ともう一度言った。
「嫌です」
「頼むよ」
「どうして?毎日みんなからもらっているくせに」
「1ユーロ、たった1ユーロでいいんだ」

たった1ユーロ、されど1ユーロ。
当時1ユーロは、140円弱だった。
そしてその頃のクエンカでは1ユーロあれば、安いワインボトル一本、あるいはずっしり分厚いチョコレート一枚、あるいは立派な焼き立てのバゲットが一本買えた。
そう、1ユーロはなかなかに大金なのである。

渡航前のみっちりしたバイトの日々を思い出して、私はむっつりと黙り込んだ。
私が今ここにいるのは、私が、図書館バイトで「名字に川がつく有名な人の本なんだけど……」というささやかすぎるヒントをもとに利用者の本探しを手伝い(川端康成だった)、試食品配りのバイトでやたらと菌の強さを比べたがるおばちゃんから詰問されながらヨーグルトを売り、巫女のバイトで熊手の大きさをめぐって揉めるおっさん同士の喧嘩を止め、塾バイトで校門に立ち高校生たちに「緑の蛍光ペンはないんすか?」と絡まれながら蛍光ペンや消しゴムを配りまくってコツコツとお金を貯めたからだ。
揃いも揃って、バイト先の客のクセが強すぎる。

だからこのお金はびた1ユーロも、おじさんにはあげるわけにはいかない。
コツコツちまちま、カツアゲしおって。
彼にとっては私たちはおしなべてチャラチャラした裕福な学生に見えるのかもしれないけれど、こっちにゃこっちなりの苦労とゼニの積み重ねがあるのだ。私のみみっちさを、舐めてもらっちゃ困る。

そんな決意を秘めつつも、拙いスペイン語で抵抗しようとすればすかさず「俺、1ユーロもないんだよ。家に帰れない」「ねねね、1ユーロだけだから」と早口で遮られ、にっちもさっちもいかない。
こうして押し問答している間に、休憩時間は刻一刻と削られていく。

お金をあげるのは癪だから、何か別のもので満足してくれないかな。

そう思いついてポケットに手を突っ込むと、キャンディがひとつかみ出てきた。
韓国や台湾のクラスメイトとお菓子交換しようと持ってきた、男梅キャンデーだ。
男梅キャンデーは、梅干しの味を忠実に再現したすっぱしょっぱい飴である。
わざわざはるか遠い日本から空輸したのだから、一粒1ユーロと言っても差し支えないだろう。

「これ日本で大人気の飴なんですけど、いかがですか?」

そう言って差し出すと、彼は興味深そうに個包装の黒い袋を自身の手のひらにつまみあげた。
「これは、甘いのかい?」
「甘くもないし辛くもないし苦くもないです」
「酸っぱい」という単語が思い浮かばず、ついなぞなぞのような答え方になってしまう。
「赤いじゃないか」
袋を開けた彼が、期待のこもったような声で言う。

「赤いけど、イチゴ味じゃないんです」
「何味なんだい」
「プラム……かな」
「じゃあ甘いんじゃないか」
「いやだから、甘くはなくって……。日本の伝統的な、味です。ベリーベリー、トラディッショナル」

煮え切らない私の言葉に、彼はムッとしたようだった。
「ふふん。そう言ってあんた、ほんとは俺にあげたくないんだろう」 
これ見よがしににやりと笑うと、勢いよく赤いキャンディを口に放り込んだ。
得意そうな笑顔でころりと口の中で一回転させた次の瞬間、彼はカッと目を見開いてべっと道路に吐き捨てた。
突き刺さるように道路に落ちた男梅は、独楽のように鋭く回る。
彼の唾液を帯びた飴がつやつやと、照りつける太陽を反射した。

「なんなんだこれは!!!」

なんて言っているのかはわからないけれど、何が言いたいのかはすごくわかる。
彼は口をすぼめてひゅーひゅーと息を吸い込み、頬を両手で挟んでくしゃくしゃにした。
まるでセロ弾きのゴーシュに「印度の虎狩」を奏でられた猫のようにしぱしぱと目をしばたたき、眉間をごしごしこすって、軽く地団駄を踏む。

そんなにまずいかな。甘くないってあんなに言ったじゃない。
彼のあまりにも大げさで芝居じみた反応に、こちらもびっくりしてしまう。

どうにも口の違和感が拭えなかったらしい彼は突然のしのしと店内に入り、すぐに出てきた。
片手にしっかりと握られているのは、グミの小袋
「なによ、お金持ってるんじゃん!」
グミを指さしてそう言うと、彼はしっしっと追い払うようなジェスチャーをしたあと、ばつが悪そうにくしゃりと笑って、グミをひとつかみくれた。
そしてうやうやしく片手を売店のドアに向けて、私を店に通してくれた。
男梅が、1ユーロを守り抜いた瞬間だった。

なんだか憎めない人だなぁ。
口直しに半分あげようかと、大ぶりなマフィンを一つ買った。
でも店を出ると、もう、そこには誰もいなかった。

「1ユーロおじさん」に会ったという話は、それ以来一度も聞いていない。 

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