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#あの選択をしたから 〜BB弾の行方〜

 2018年9月。新卒で入社したピカピカだったはずの社会人経歴にわずか1年半で傷をつけた。理由はよくある話だ。外傷を治すために3年間必死に勉強して勝ち取った国家試験の武器は、実際に狩に出てみたら棒切れでやりくりする事の方が重要だと教わったのだ。武器をうまく使えば1週間で治るのに、棒切れでちまちま治療してお金を稼ぐ表の世界に居ても立ってもいられなくなった。とても稚拙な考えであることは後になって知ることになる。
父が19歳の頃アメリカでバイクを現地で買い、サンディエゴからニューヨークまで半周した話をよく聞かされていた。拳銃をお土産で買って帰りの空港で捕まり2週間ほど牢屋に入れられた父の写真を、よく小学校に持って行った。「どうだ。うちのお父さんは馬鹿でめっちゃ面白いんだぞ。」とふざけながら、でもどこか少し誇らしげな顔でクラスの子たちに話たのを覚えている。父はあまり考えない。直感頼りで失敗する時は爆弾のようなケースが多い。そういうところは娘の私にそのまんま引き継いだ。そして翌年の1月末、白衣を脱ぎ捨てタンクトップにビーサン、BURTONのリュックを背負いニュージーランド地に向かった。

 東京生まれ東京育ち、悪そうじゃなさそうな友達は大体友達だ。男の子の環境で育ったので昔から口は悪いが悪事には興味がなかった。両親が怖かったって言うのもある。父はある程度自由にさせてくれるようなスタイルだった反面、将来の選択の決定権は母だった。習い事、欲しいもの、友達とどこか行く時でさえ母に稟議を通した。いつも勝率は4割。その4割のうち心地よくYESと言ってくれたのは1割程度だ。私はこの稟議が苦手だった。高校・専門学校の進学の際も本番での一発勝負を避け、日常会話でちょくちょくジョブを入れたりもしたが、結果高校は条件付きで勝利し、専門学校は敗北した。

 母の反撃一つで折れてしまうほど、中学校からの服飾の仕事に就く憧れはそこまで情熱がなかったのかもしれないと思うほどだった。そんな母が社会人1年半で履歴書に傷をつけてまで海外経験を許してくれるだろうか。自分の中で何度もこの稟議に勝つ理由と口実を考えたがBB弾くらいの弾しかない。BB弾であの女王を倒せるはずがない。母をリビングにソファに座らせて私は床で正座をし、敗北メーターが右に全振りのまま戦いが始まった。
「会社を辞めて、海外に行きたい。場所はニュージーランドで1年過ごしたい」
私のBB弾はこれにて弾切れとなる。
「3年は働きなよとは思うよ。けどもう大人なんだ。責任を持った上で人生一度きり、好きなようにしなさい。」
反撃はなく、???が残った静かな勝利となった。
「え?そんだけ??」
「だって反対したってどうせ行くんでしょ?あんたとお父の自由人なところは飽き飽きしてるの。でも正直ママには出来ないことだから、できるうちにやってきな。自分で稼いだお金であんたの好きなことをおやり」
 気づかなかった。そうか私大人になって社会に出てたんだ。母の役目の終わりを告げているような、子育てという仕事を全うした母はいつにも増してタバコ姿がカッコよかった。

あれから私はニュージーランドに1年生活し、言葉では言い表せないほどの経験、出会い、学びがあった。今はスコットランドの首都エディンバラでバリスタとして働き生活をしている。大人になって選んだあの選択に間違いはなかったと、これからもいろんな経験をすることで証明し続ける。

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