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「老いを生きる」とは? 退職が決まってから、あせって考えた

65歳になった。

最近になって、突然、ハゲの進行度合いや白髪の量にかなりショックを受けている。毎日鏡を見ていたのに、ここまで進行していたとは! 今さらながらビックリした。

若いほうがいいと、ついつい思ってしまうのだが、人生をもう一度やり直せるとしても、それもなんだか面倒なんだよな。楽しいことだけしてダラダラすごせるのならいいけれど。

10年ほど前、まだ母が生きていた頃、私の頭を見て「ほぉ~、白髪になってもハゲるだかね?」と言ってきた。普通、面と向かって本人にそんなこと言うか? 目をキラキラさせていたので、純粋に疑問に思っただけなのだろうが、ちょっとデリカシーがなさすぎやしませんか、お母さん。とりあえず聞こえないふりをしておいたが、振り返ってみると、すでにあの頃から私のジジイ化は着々と進行していたのだろう。

あの時、母の言葉にしっかりと耳を傾け、自分を見つめなおし、備えを進めていたら、もう少し安心な老後を迎えられたかもしれないが、今となってはもう遅い。たいていの人は、老後の備えなんて、老後になってからしか、その必要性に気が付かないのだろうと思う。仮に気がついたところで、そんな余裕はなかったような気もするしね。

話をもとに戻すが、人はなぜ「突然、年をとった」と感じるのだろうか。竹中星郎著「高齢者の孤独と豊かさ」を引用しつつ考えてみたい。

思いだしたくないことを意識の外に追いやって、無意識のなかに押しとどめておこうとする自我の防衛機制を「抑圧」というが、それとならんでよく知られるのは「否認」である。自分ではみたり聞いたりしてわかっているにもかかわらず、その現実を認めようとしない心の働きのことである。老性自覚とは、老いや衰えの否認から現実を認める段階にいたったということができよう。しかしその多くには、仕事の失敗などの挫折や人からの言葉や態度に傷ついたエピソードをきっかけにしている。だからこそ、日ごろみなれている自分の顔のしわに愕然とするのである。
「高齢者の孤独と豊かさ」竹中星郎

自分の老いに気が付かなかったのは、防衛機能だったのね。なんだか涙ぐましいな。そしてある日、「挫折や人からの言葉や態度に傷ついたエピソードをきっかけに」鏡に映った本当の自分を見ることになる。

私の場合は、数年前からの配置変えで徐々に周りから人がいなくなり、さらには、業務に必要な情報さえも、ほとんど伝わってこなくなってしまった。

一応は、会社にとって大切なことをしていたつもりだったので、次世代への指導もできないし、何か知っておくべきことはないか、周囲に聞いて回らなければいけない状況には、それなりに苦痛を感じるようになっていた。

一人は、気楽と言えば気楽だが、これって、ひょっとしたら肩たたき的なやつなのかもしれないな、とも思った。

孤立は、社会的な関係をカットオフされた状況である。これは生活形態に関係なく、共同生活のなかでも生じる。本人の意思ではないので、心理的に深刻な影響を受けることが多い。
「高齢者の孤独と豊かさ」竹中星郎

年寄りだって人間だもの、傷つくのである。そして、それをきっかけに、鏡の前の自分に愕然としたのである。

まだ前髪が残っていたので、うっかり頭頂部の状況を見落としていたことに気がつき、鏡台に向かって手鏡をあれこれ動かして見たら、気持ちの暗さとは裏腹に、頭頂部は明るくツヤツヤと光っていたのである。

ジジイの場合、年を取って輝きを増すのは、頭ぐらいしかないんでしょうか? どうなんでしょうか?

男性の平均的な健康寿命は72歳くらいだそうだ。ぶらぶら好きなことをして遊ぶ時間は、あと7年くらいしか残されていないのかもしれない。

厚生労働省 e-ヘルスネット「平均寿命と健康寿命」
平均寿命とは「0歳における平均余命」のことで、2016年の平均寿命は男性80.98歳、女性87.14歳です。一方、健康寿命とは、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」のことをいい、2016年の健康寿命は男性72.14歳、女性74.79歳となっています。

経済的な面から言えば、もう少し働いた方がいいに決まっているが、くすぶった気持ちのまま働き続けるのは、なんだかよくない気がする。

…で、辞めることにした。

でも、不安は残る。一番の心配ごとは、やはりお金だ。会社に話して、退職日も決まってから心配するなんて、自分の計画性のなさに愕然としたが(最近、愕然としてばかりいる)、例の「老後2,000万円問題」が俄然気になってきた。

「老後2000万円問題とは?老後の不安を今からなくすための方法5選」

平均的な高齢夫婦無職世帯の場合、毎月の赤字が5万円強になるため、20年で約1,300万円、30年で約2,000万円の蓄えが必要だという。

我が家は大丈夫なのか?

妻がちょっと稼いではいるが、私の年金がメインの収入なので、年金の見込み額を知りたくて、二人で年金事務所に行った。窓口の職員さんは、めちゃくちゃ早口で、声が小さかったので、あんまり聞き取れなかった。

「今、いくらっておっしゃいました?」

「○○万円です」

あかん、聞こえん。母も耳が遠かったから、遺伝かなあ。補聴器って、かなり高いし…。また、愕然としてしまった。

「いくらって?」

「○○万円です」

やっと聞こえた。とりあえず聞こえて良かった。年寄り相手に話す時は、もう少しゆっくりと大きな声で話してほしい。次から次へと対応しなければいけないから難しいのかな、大変な仕事だなと、つい、彼らのことを心配してしまったが、そうじゃない。今、心配すべきは自分のお金のことだった。いつか落ち着いたら、「大きい声で、ゆっくりと」を国に要望してみよう。だって、10聞いて2しか聞こえないより、5聞いて5聞こえるほうがいいもんね。

で、たりるのか、お金!

年金事務所からの帰途、2時間ちょっと停めただけなのに、コインパーキングの料金がなんと3,000円だった。看板を見ると1時間1,000円と書いてあり、10分停めるだけでも1,000円だそうだ。高すぎるだろ。これからお金がいるというのに幸先が悪すぎやしませんか。

まったく、ちょっとしたことでも、いちいち動揺してしまうのは、よくない傾向だと思う。年を取ると、人間的に成長して、少々のことでは動揺しなくなると思っていたが、全然そんなことなかったですね。

で、そもそも毎月の出費ってどのくらいなんだろう? 妻ならたぶん把握しているはず、と思って聞いてみた。

「あのさあ、うちの毎月の出費っていくらぐらい?」

「知らん」

・・・さすがだ。こんなルーズな夫婦でも、今までなんとかやってこれたのは、二人共あまり無駄遣いをしないからかな。でも、退職するのに、さすがにこのままではマズイだろう。

ざっくり出費を計算してみると、頑張って節約しても、毎月5万円以上の赤字になりそうだ。まさに老後2,000万円問題そのものじゃないか。

「や、やばくない? 辞めるのやめたほうがいいかな? 今さら辞めないって言えんけど」 

「な~んとかなるんじゃな~い」 

妻によると、なんとかなるそうだ。安心した。それにしても、妻のきっぷの良さは、まるで江戸っ子だ。一生ついて行こうと思って結婚したのは、正解だったと思う。

しかし、出費を減らすか、足りなければ働くしかないのが現実だろう。そのあたりのことを見極めるために、家計簿をつけてみることになった。二人とも、人生初の家計簿である。

「私、家計簿なんて面倒だな〜。あなたつけてね」

逃げられた。前途多難だ。

お金のことだけではない。辞める日が近づくにつれ、生きがいというか、これからの人生をどう過ごすのかについても、なんだか不安になってきた。

人は多くの場合、会社などの所属している社会のなかでの役割や立場に規定されながら自分を位置づけ、そこに積極的な意味をみいだそうとしている。ところが老年期や定年とは、そのようなしがらみで自分の定位をはかれなくなる。社会的な役割や立場からはじめて解放されたときに、自分とはなんなのか、自分の役割はなにか、どのように生きたらよいのかといったテーマにあらためて直面する。老年期とは、自由になりながら、主体的に生きることをみいだすことがむずかしいという逆説的な現象が生じる時期でもある。
「高齢者の孤独と豊かさ」竹中星郎

今までは、会社の利益や社会貢献をどのように追求すべきか、みたいなことを中心に考えていけばよかったから、比較的シンプルだった(達成できたとは言っていない)。

ところが、退職などで「社会的な役割や立場からはじめて解放」されると、今まで基準にしていたものを失うため、いったいどうしたらいいのかわからなくなってしまうんだな。

…そこまで会社に依存していたなんて、情けないったらありゃしない。

さらには、今までの人生とはいったい何だったんだろうと、後悔混じりにウジウジと振り返ってしまうのである。

年をとってからの退職は、「高齢者の孤独と豊かさ」に書いてあったとおり、決して軽視できない「喪失体験」だった。

喪失体験は客観的な事象であり、それをどう受けとめるかは主観的な反応である。その結果、ある人はうつ病になりそれを引きずる。ある人は妄想をいだく。また別のある人は身体病を生じ、立ち直れないままに痴呆性疾患となって別の経過をたどる場合もある。
「高齢者の孤独と豊かさ」竹中星郎

ああでもない、こうでもないとウジウジ考えていたら、ちょっとだけひらめいた。

よく考えてみたら、自分は、会社という狭い社会で生きてきただけだった。それに「自分とはなんなのか、自分の役割はなにか、どのように生きたらよいのか」なんて、真剣に考えたことなどなかったのではないか。

これから、本当の意味で、それらを自分なりに追求していけるのなら、けっこう面白いかもしれないと思う。

しかし喪失体験をバネに、新しく老いに向き合う人もいる。そこにいたるには時間がかかるにしても、豊かな老いを約束されているといっても過言ではない人生のエピローグである。
「高齢者の孤独と豊かさ」竹中星郎

これからは、時間も言動も圧倒的に自由だ。それを自分のために有意義に使わないのは、もったいなさすぎる。

豊かな老いを過ごすために、もう少しだけ、もがいてみることにしよう。

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