見出し画像

一生のお願いを温存する語彙力再考

(語彙力):対象物から受ける感情が強く豊かすぎるあまり言葉にならない状態を、語尾につけることによって表現する語。ヤバい、エモいなどを主に肯定的に強調する。また、伝えるだけの語彙を持ち合わせていないことを束の間嘆いてみせ、自己承認欲求を隠す狙いを持つ。(都村つむぐの独断と偏見より)


twitterで見かけるたびに、便利だなあと思う。短さが賞賛される現代において、たった4文字で感動を表現できる。私もいつまでも字数制限と格闘していないで、手っ取り早く、リアルタイムに発信してしまいたい。という衝動に負け、実際、時々、頼っている。

だが、書き手にとっての「言葉にならない」は「一生のお願い」みたいなもの。たとえ野暮になる状況ですら言葉で表現するのが生きがいであり使命。それを放棄する!と宣言するのだから、一世一代の気持ちで書かねばならない。「筆舌に尽くしがたい」「形容しがたい」「得も言われぬ」……語彙が足りない語彙なら湯水のように思いつくが、使うほどに信用を失っていく悪魔の言い回しである。


となれば、早速、読書でもしてボキャブラリーを鍛えましょうと、習慣的に本を手に取るようになり早10年。一向に引き出しが増えた実感がない。こうして綴っていても「書く」と「言葉」を連発。大学入学当初のレポートに比べればさすがにマシだが、ふさわしい表現が見つからずにもんもんとする苦しみは少しも軽減されない。

読書をすれば語彙が増える。誰に教えられるでもなく信じてきたが、このあたりでいったんその関係性を見つめてみるべきではなかろうか。

ここではまず「語彙力」を「意味・用法を理解し、自身の言語表現に用いることのできる語句の豊富さ」と置く。その構成要素を、まったくもって数値的根拠のない個人の経験をもとに3つに分類した。



①語彙力=難しい言葉をどれだけ知っているか

聞きなじみのない難解な単語を駆使していると、それこそ「すごい……(語彙力)」となる。試しに太宰治の『畜犬談』をぱらぱら。「跳梁」「阿諛追従」「懶惰」「欣然」……軽く眺めただけでも、読み方すらわからない熟語がざんざか。

文脈である程度の推測ができるため、つい読み飛ばしてしまうが、身につけるには意味を調べないことには始まらない。スマホで検索しながら読む、もしくはメモして後からまとめて調べるなど堅実な手間と努力が大切。

ただ、こうした難しい語句を己の表現活動に応用できるかは別問題。聞きなじみがないのは一般的に知らない人が多いからであって、語彙を求めすぎて伝えたいことが伝わらなければ本末転倒。辞書に書かれている以上の意味が込められているやもしれず、気安く使うわけにもいかない。やわらかな字面の中にいきなり盛り込んでも、世界観が揺らいでしまう。

知っていれば読書はどんどん楽しくなるが、使いこなすには技量と知識が必要だろう。



②語彙力=新しい言葉をどれだけ知っているか

時代が変われば、新たな価値観とともに言葉も生まれる。「ヤバい」や「エモい」もまた、時代の流れで生まれた立派な言葉のひとつである。新しいものに敏感でいるのも語彙力アップへの道。近年では「アイデンティティ」や「コミュニケーション」などの外来語の浸透力も目覚ましい。

こうした鮮度の高い言葉は、本の中で中心的なテーマとして扱われることも多く、①のように後から調べずとも自然に自分の中に根付いてくれる。

一方で、豊かだった感情をひとつに束ねてしまうのもまたしかり。最近、「共感性羞恥」という言葉を知った。こんな言い方をするのねと感心する反面、「読んでいるとヒリヒリした」「あの頃の自分を重ねていたたまれなくなった」といった肌感まで伝わってくる表現が、1単語に集約されてしまったさみしさもあった。

うまく使えば文章がすっきりまとまるが、濫用すれば逆に表現の幅をざっくり削ぎ落としかねない危うさもはらんでいる。



③語彙力=誰もが知っている言葉をどれだけ自在に扱えるか

「小学生でも知っているのに、いざ表現するとなると浮かんでこない単語」というのが人それぞれある。数え上げたらキリがないけれど、「ありふれた」とか「気まぐれに」とか「うろたえる」とか、私はなぜかあまり使った覚えがない。「平凡な」「身を任せて」「困る」が先に来てしまう。この自分にしかわからない抑圧を解放して、伝えたいことにあわせて柔軟に選べるようにすることが、ボキャブラリーアップへの近道な気がする。

とはいえ、使うときに浮かんでこないだけで、読んでいるときにはなんらの違和感もないのが難点。読み終わったあとに気に入った文章を抜き出したり、あらすじや感想をまとめてみたり、きちんとアウトプットの機会を作ることが重要だ。改めてじっくり向き合う中で、素敵な言葉やコスパのいいワードを収集していく。


結局、読むだけじゃ語彙はそうそう増えない。なんだか凡庸な結論に落ち着いてしまった。じゃあ読書は意味がないのか。といえばそういう問題でもないのかなと思う。単語の組み合わせや表記によるニュアンスの変化、リズムにオノマトペ、たとえなど、表現力を豊かにする切り口が本にはたくさん詰まっている。とにかく読んで、感じて、気に入ったものを研究して、使うチャンスを増やしていくしかないのよね……と積読の山とサボりがちの読書ノートを前に己の懶惰を突きつけられる今日この頃。


頂いたサポートは書籍代に充てさせていただき、今後の発信で還元いたします。