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春風のマーチ(短編連作『今日も今日とて私を生きる』)

 1枠足りない。
 この中で1人、高校最後の美術展に出展できない。


 「で、どうすんの、次期部長」

 綾瀬が面倒くさそうに絵里子を促す。西日が差し込む放課後の美術室には古い木材と油のにおいが染みついていた。入部を決めたばかりの1年生たちが、部屋の隅から恐る恐る2年生の不穏な会議の様子をうかがっている。



 美術部最大の舞台は秋に開催される『高文祭』と呼ばれる芸術展だ。県内の高校から集まった作品が文化ホールに一斉に展示され、当日は審査員から直接批評をもらったり、他校の生徒に投票したりして、最終的に選ばれた作品が全国にいく。

 開催が秋なので、受験とかぶる3年生はほとんど参加しない。つまり、美術部にとっては「2年の秋」こそが「最後の夏」なのだ。

 それなのに、1枠足りない。
 絵里子たちの高校はスポーツ科があるので、部活も当然運動系が強い。学校側の手の入れようも雲泥の差で、2つある体育館にそれぞれトレーニングルームが併設されているのに対し、美術部は描きかけのキャンバスを置いておく場所すらない。顧問は間宮という若い美大卒の非常勤講師で、顔を見せるのは授業が入っている日だけ。ときどき代わりに少し描いてみせ「こんな感じで」とまともなアドバイスもせず帰っていく。顧問とは名ばかりの頼りない指導だ。

 おかげで2年生は11人いるのに、弱小美術部に与えられた枠は10点。新入部員の歓迎もそこそこに、黒板前の長机を囲んでミーティングするはめになってしまった。



 「もうじゃんけんでよくね?」
 綾瀬は話し合いに飽きたのか頬杖をついて爪や毛束を陽に透かしている。

 第2ボタンまで開いたシャツ、ワックスでセットした流行りの髪型、腕に巻かれたくすんだ緑のミサンガ、普段はサッカー部とつるんでいる。

 20年ぶりの男子部員で、中学時代には全国で奨励賞を取るほどの実力。昨年は入選こそ逃したが油彩の自画像は審査員から高評価を得ていた。


 じゃんけんで負けたらどうするつもりなのだろう、と絵里子は不思議に思う。彼には自分が負けるという発想すらないように見える。運さえも味方してくれると信じて疑わない、どんな逆風でも揺らぐことのない圧倒的自信。彼と向き合うたびに、得体のしれない畏怖みたいなものがどっとあふれて、絵里子はいつの間にか目をそらしている。


 ただ彼は間違いなく期待のエースだ。この学校の名を全国にとどろかせるチャンス。次期部長として彼を負けさせるわけにはいかない。


 「じゃんけんは異議ありだなあ」

 ガラスの大きな眼鏡ををくいっと押し上げて、きよちゃんがフォローしてくれる。頼もしい次期副部長だ。

 「大会に出られなかったら部活やってる意味ないし。それを運で決めちゃうって、ねえ」
 「わかる。美術部なんて高文祭と学園祭しか見せ場ないからね」

 きよちゃんに同意するこのちゅんは、机の角に座って絡まったイヤフォンを解いている。

 ふたりともシャツの一番上までボタンを留めて、一度も折り込んでいないプリーツスカートをひざ下でひらひらさせている。デッサンや風景画よりも漫画のキャラクターを模写する方が楽しいタイプだ。

 「じゃあどうすんのさ。高文祭、出なくていいひとー?」

 綾瀬が挙手を促す。みんな口をすぼめ、目を伏せる。誰も手を挙げようとしないことよりも、さりげなく会議の主導権を取られてしまったことに絵里子は落ち込む。


 「な、そんなやついないだろ。自発的に決まんないなら、誰かが決めるしかないんだわ」
 「そういうの、運動部では監督が決めるんじゃないの?」

 朱音がおっとりと提案する。彼女の周りだけ動画の2分の1倍速みたいなスピードで進んでいる。

 「なら間宮に決めてもらうか」

 綾瀬がぱちんと指を鳴らした。完全にペースを握られている。

 「私、反対」

 びゅんっと空を切るように手を突き上げたのは森さん。

 「間宮なんか全然部室に来ないじゃん。そんなやつに決められたくない」
 「言えてる。間宮が描いてるの見たことないんだけど。本当に美大卒?」


 林さんも顔を見合わせてくすくす笑う。ツリーコンビはスケッチやデッサンの題材を探すときもずっと一緒にいて、同じ対象をほとんど同じ角度から描いている。


 「じゃあ、次期部長が選べば?」

 綾瀬がこちらに視線を投げてくる。

 「それは、実力でってことだよね」

 突然の指名に絵里子は口ごもる。

 「何を基準にするかはお前次第だろ。次期部長として責任もって選べよ」

 ごくん、とつばを飲み込む。肩にどっしりとのしかかる11人分の青春の重みに、胃まで潰れてしまいそうだ。


 「初田が決めるならみんな文句ないだろ」

 綾瀬が念を押すように一人ずつ指さして言う。誰もが自然とうなずいている。

 こんなことなら綾瀬が次期部長になればよかったのに、と絵里子は自分が情けなくなる。

 誰もが認める輝かしい受賞歴。無意識のうちにみんなをまとめ上げる天性のリーダーシップ。

 彼の方がずっとキャプテンの座にふさわしい。

 オタクと揶揄されがちな「美術部」への偏見も、彼が部長ならぶっこわせたのに。



 自分には他人に優劣をつけるほどの実力はない。

 どんなに描いて消しても正しいデッサンにならないし、ボトルのラベルや木に茂る葉、瓦屋根など細かい部分は根気がなくてだんだん雑になる。赤いものは赤く、青いものは青く塗ってしまう色彩センスの貧しさにもうんざりする。

 所詮、友達に自由帳のらくがきを褒められる程度の才能なのだ。

 そんなこと自分が一番よくわかっている。むしろ自信がないから、立候補したのだ。役職につけば必然的に必要とされる存在になる。


 そうすれば少しは胸を張れるんじゃないか。『高文祭』の出展数が足りないことにも、自分がそのボーダーラインにいることにも気づいていた。「部長」という肩書きがあればライン際から遠ざかれるという打算もあった。



 気後れしながらも部員の顔を見回す。

 間違っても綾瀬を外すことはできない。自分でも確信しているのか余裕綽々で、部長を気にかける様子もない。ときどき隣に顔を向け、もう一人の男子部員である伊賀倉に話しかけている。

 会議では一言も発しない伊賀倉は、友人に話を振られてもちょっと首をかしげたりうなずいたりするだけで、表情もほとんど変わらない。肌が透けるように白く、肩や胸も簡単に壊れそうなほど薄い。見るからに文化系で、綾瀬と並ぶと同い年の男子なのにあまりに対照的で目がちかちかする。


 ただ画力でいえば、伊賀倉は圧倒的だと絵里子は思っている。中学時代は帰宅部で、1年の秋に突然入部してきた。


 学園祭も高文祭も終わったあとだったので実績こそないが、ひとたびスケッチブックを開けばそこに描かれるワインボトルやりんご、石膏像が手を伸ばしてくるような不思議な感覚に引き込まれてしまう。デッサンには寸分の狂いもなく、同じ鉛筆を使っているのにグラデーションの階層はなめらかで、線一本いっぽんがふわりとやわかかったりキンと澄んでいたり今にも動きだしそうだったりする。質感や温度、においまでもがその白黒の世界にやさしくとじ込められている。


 綾瀬は確かに上手いが、伊賀倉の絵は生きている。彼がキャンバスという大きな舞台にどんな世界をとじ込めるのか。部長という立場をわきにおいて、ひとりの絵を描く人間として見てみたいと思う。


 きよちゃんとこのちゅんはどっこいどっこい。絵里子と同じで「へたではない」レベルだろう。

 朱音はそのちょっと上。特別上手なわけじゃないけれど、タワーの鉄骨や布の小花柄、人工芝など、普通の人なら投げ出してしまいそうな細かいものの集合体を最後まで丁寧に描く。できあがって全体を眺めると、おっと圧倒させるものがある。

 森さんと林さんはバドミントン部からの途中入部組で、まだ基本がなってない。ペインティングナイフや筆洗を物珍しそうに眺めているくらいだから、油彩ができるのか不安なところ。外すとしたらどちらかか。


 いざとなれば容赦なくランク付けしている自分に気付く。「へたくそだから」と自信がないふりをして、本当は誰よりもプライドが高くて、あの子よりは上か下かと慎重に立ち位置を見定め、実力もないくせによく見せようとして、あまりの腹黒さに自分でもいやになる。



 「っていうか、まだ可南子と未海こないの?」


 林さんが壁の時計を見上げ、誰にともなく聞く。


 「画塾じゃないかな。現役で受かれって親から言われてるみたいだし」

 と答えるのは森さん。美大の受験は実技の比重が大きいので、ほとんどの生徒が専門の塾に通う。業界にコネのある顧問がついていれば話は別だが。

 
 「じゃあ、あのふたりのどっちかにあきらめてもらおうよ。こんな大事なミーティングだってサボってるんだから」


 絵里子に目をつけられているのを察しているのか、林さんは懸命にこの場にいないふたりにターゲットをすり替えようとする。


 「未海は去年も締め切り前に1週間だけ来て。テキトーに仕上げて酷評されてたよね」


 このちゅんは解けたイヤフォンをぐるぐる指に巻きつけながら振り返る。

 たしかに、いくら個人競技とはいえせっかく一緒にやっているのだから、士気を下げるのではなく、互いに刺激をもらえる環境にしたい。

 実力ではなくやる気を基準にする。

 新たに浮かんだ選択肢は絵里子を少しなぐさめた。


 「でもあいつら受け入れるかな?全国いければ受験も有利になるだろうし」


 まとまりそうな雰囲気に水を差したのは綾瀬だ。ふたたび終わりが遠のく。

 「じゃあどうするのよ。最初で最後なんだよ」

 このちゅんはすでに投げやりだ。

 「いや、半分は最初で最後じゃない」

 綾瀬が口に手を当て、探偵みたいに声を落とす。ひらめいた、というようにこのちゅんが手を打った。


 「そうか、絵里子、綾瀬、未海、朱音は去年も高文祭に出たよね」

 昨年は先輩が6人しかいなかったから、1年だった絵里子たちにもチャンスが巡ってきた。森さんと林さん、伊賀倉は途中入部なので、残りの部員から当時の3年生が選んだ。

 「去年は、まあ来年あるしなあって思ってたけど、今年はさすがに作品出したいよ」

きよちゃんの視線がちくちくと痛くて絵里子は下を向く。もしかしたら彼女も枠を計算した上で副部長に手を挙げたのかもしれない。

 「すでに経験してる人が譲ってくれてもいいんじゃない?」

 と森さんの言葉を受け、このちゃんは親指から順に折り曲げていく。


 「絵里子は部長だし、綾瀬は中学の時全国いってるし、未海も昔すごい賞とったことあるんでしょ」

 それから朱音をちらりと見て、わざとらしく息を吐いた。

 突然白羽の矢が立った朱音は驚きで目を丸くし、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 「このちゅん、そういうのやめてよ」

 見ていられなくて絵里子が口を挟む。が、遅かった。朱音の目からぽろぽろとしずくがあふれだす。


 最悪だ。
 ぎすぎす牽制しあったり、足を引っ張りあったりせず、なあなあと生ぬるい関係の中で、好きなものを思い思いに作れるのが美術部のいいところなのに。


 「ずるいよ、このちゅんは」

 ぽたぽたと朱音のあごから涙の粒がこぼれおちる。

 「ずるいって何よ」
 「このちゅんは、書道部でも高文祭に出られるじゃん」

 美術室の空気が急激におもったるく感じる。
 1年生たちは物音ひとつ立てないよう息をひそめている。

 「たしか兼部だっけ」

 林さんが確認するが、このちゅんは窓の外に目を向けて反応しない。

 「書道部は人数少ないし、絶対出られるよね。というか去年も」
 「それはそれ、これはこれじゃん!」

 このちゅんがドンっと机を揺らす。

 「じゃあなんで黙ってたの?黙って私を外そうとしたの?信じられない!」

 声を荒げて朱音が立ち上がる。

 「もうやめろよ」

 綾瀬がふたりの口論を遮る。

 「喧嘩したって仕方ないだろ」

 声音こそ落ち着いているが、足は上下に震えている。イライラを隠しきれていない。

 「おい、お前もはっきりしろよ」

 睨むような視線が絵里子を射抜く。

 「……ごめん」

 絵里子が部長じゃなければ、こんなことにはならなかったのに。

 また同じことが頭をめぐる。重たい沈黙。部員の顔がじんわりと滲んでいく。鼻の奥が熱い。泣いたら本当に部長失格だ。ぎゅっと下唇を噛みしめたそのときだ。

 「俺はいいよ」

 静寂をなぞるような軽い声だった。みんなが一斉に伊賀倉を見る。

 「だから、俺は、高文祭、出なくてもいいよ」

 誰も返答しないので聞こえていないと判断したのか、今度は文節ごとに区切ってはっきりと発声した。が、聞こえてはいる。突然の展開に思考がついていかないだけだ。

 「別に賞とかも欲しくないし」

 気を遣っているのかと思ったが、いつもと変わらない無表情で淡々と言うので、あ、そうなんだと妙に受け入れてしまう。

 「水彩か油彩が条件だよね」
 「えっと、あ、うん」

 そこにいる全員が戸惑っていた。伊賀倉だけが別の次元にいるみたいにずんずんと話を進めていく。

 「俺、色塗りたくないし。スケッチするのが楽しいだけだから」

 部長として、これでいいのか。
 問いかけるもう一人の自分は脳の片隅に確かにいた。だが、唐突に現れた出口にほっとしてもう何も考えられそうにない。

「わかった。伊賀倉以外の10人でいこう」



 ザッザッとグラウンドを駆ける音が地面を伝ってくる。サッカー部が一列でドリブルしていた。ざらざらと鼻孔にまとわりつくような砂の匂い。
遠くで吹奏楽部の誰かがトランペットを奏でている。


 ミーティング後の美術室はあまりにも息が詰まるので、スケッチブックを持って外に出てきたのだが、先ほどから斜め後ろをずっと足音がついてくる。

 「あんたはなんで一緒に来るのよ」

 振り返ると伊賀倉が両脇にスケッチブックを挟んでせっせとこちらへ近づいてくる。

 「何描くの」
 「放っといてよ。一人で描きたいの」
 「俺は一緒に描きたいし」

 ドキッとした。伊賀倉の顔をじっと見て真意を探ったが、何ら深い感情は見受けられなかった。

 「どこ描くの」
 「中庭。そこなら校舎も花壇も質の違うものを一枚に入れられるし」
 「じゃあ俺も」

 何を言っても折れないのであきらめて好きにさせておく。

 三方を校舎に囲まれた中庭には小さいながらも噴水や花壇、植木があって、モチーフには困らない。ベンチに腰掛け、スケッチブックを開くと伊賀倉も隣に座ってきた。上手な人と同じ風景を描くと、自分の粗が際立つのでできれば移動してほしいのだが。絵里子の気持ちなど意にも介さず、まだ白いページをのぞきこんでくる。

 「ちょっと、あんまり見ないでよ」

 スケッチブックを自分の胸に当て隠す。見せるために描いているはずなのに、見られるのは恥ずかしい。伊賀倉はしばらくその矛盾が理解できないのか首をひねって絵里子の目を見ていたが、やがて自分もスケッチブックを膝に置き、鉛筆を動かし始めた。

 仕返しに心ゆくまで世界を写し取る過程を観察させてもらう。

 

 伊賀倉は躊躇いもなくいきなりこれぞという線を描き始める。絵里子は地面や建物などパースと呼ばれる基準の線を引き、どこにどれくらいの大きさで何を描くかおおざっぱに下書きしてから、少しずつ欲しい線に近づけていく。そうしないと遠近感が狂ってしまったり、形が歪んでしまったり、しまいには描きたかったものが画角の外にはみだしてしまったりするのだ。

 伊賀倉はその工程をすっとばし、真っ白な紙に描きたいものから手を入れていく。

 まずは中央の噴水から。ゆるやかなカーブも定規をあてがったかのようにするりと引く。噴きだす水はシャッシャッと勢いよく。反射のきらめきは慎重に。

 消しゴムはほとんど使わない。何もなかったところからみるみるものが生まれていくさまは見ていて気持ちがいい。あまりにもさくさくと描いていくので、自分もこんな風に手が動く錯覚に陥る。


 次はその奥に見えている木。どっしりとした幹の輪郭を下から上へとかたどっていく。

 その自由な動きに思わず息を呑む。文字を書くのもそうだが、紙の上に鉛筆を走らせるとき、腕は主に上から下、左から右へと動く。逆方向は慣れていないので、どうやったって多少ぎこちなくなるはずなのだが。

 「どうして、下から引くの?」

 絵里子が聞くと、それまで見られていたことにも気づかなかったのだろう、ぴくっと肩が震えた。ちらりと絵里子を見てから、握っていた鉛筆を親指の付け根のふくらみのところに挟んで、人差し指をゆっくりと遠くの木の根のあたりに持ち上げる。それから、すすっと下から上へ幹の輪郭をなぞっていく。


 「だって、木は地面から空に向かって生えていくでしょ。だから線も、下から上へ伸ばしていくんだよ」

 説明し終えると伊賀倉はもくもくと鉛筆を動かす。

 絵里子の胸のあたりでわだかまっていたものが、すとんと落ちていく感じがした。それが世界に生まれてきたのと同じ方法で、紙の上にいのちを宿らせていく。だから彼の絵はそのものと同じ存在感を湛えているのだ。


 どんな形をして、どう見えるかにばかり目を凝らしている絵里子とは捉えようとしているものが違う。小手先の画力ではどうしようもない、決定的な差。

 そりゃ、かなわないわ。

 悔しさも挫折感もなく、そう思うことが決まっていたかのように自然と受け入れていた。

 「伊賀倉さ」
 「なに」
 「高文祭、出しなよ」
 「は?」

 休むことなく動いていた手がぴたりと止まる。

 「伊賀倉の絵は、みんなに見てもらうべきだと思う」
 「でも誰かが出られなくなるぞ」

 伊賀倉にとっても悪い話ではないはずなのに、思いのほか食い下がる。

 「だったら私は、出られなくてもいい」

 負け惜しみでもなんでもなく、心の底からそう思った。その証拠に言葉は脳を介さずにぽろぽろとこぼれた。

 伊賀倉にだったら「最後の秋」を譲っていい。これで誰も傷つかない。部長としても「勝てる」メンバーを選べた。満足だ。絵里子は使命をきちんと果たした。


 そのとき、スケッチブックに置かれた伊賀倉の右手が右上から斜め下へ、切り裂くように走った。その跡に残る太く猛々しい線は、横長の紙を斜めに遮断している。紙のわずかな凹凸が線の形にへこみ、てらてらと鉛が光を放つ。普段は表に出さない伊賀倉の感情がその一本の線に迸っているようだった。


 「逃げてるんだ」

 低く透明感のある声が震えていた。

 「初田さんは逃げてる。俺に譲っているふりをして、本当は怖いんだ。何時間も、何日も、いや何か月もかけて描いて、自分に才能がないって突きつけられるのが怖いんだよ」

 肺のあたりがぐっと締めつけられる。伊賀倉はむかつくくらい的確に、絵里子の弱いところを抉っていた。


 「今決めなくたっていいじゃないか。まずは全員描けばいいんだよ。描いて、その出来だけで選ぶ。それをしないのは、選ばれなかったときに言い訳がきかなくなるから。自分から引いておけば、入選できたかもしれないっていつまででも信じていられるしね」

 伊賀倉が今度はやわらかく、左上から右下へ鉛筆を滑らす。先ほどの線と交わり、大きな「×」が作りかけの世界と絵里子たちとを隔てた。

 「初田さんは負けることから逃げてるんだよ。戦わなければ負けない」

 春の青い風が伊賀倉の髪をさらっていく。まっすぐな瞳にくゆりくゆりと炎が揺らめていた。


 伊賀倉が隣に座ったとき、絵里子は咄嗟に自分の絵がへたに映るのを嫌がった。

 スケッチブックをのぞかれたときは、見られたくなくて隠した。

 伊賀倉の言う通り、評価されるのが怖いのだ。

 頑張ってきたものが無駄になってしまうのが怖い。自分に才能がないことを認めるのが怖い。

 部長に立候補したのも、肩書きで実力をかさましして見てもらえるんじゃないかと思ったから。実物大の才能から目をそらしていただけ。

褒められたくて、でも挫折はしたくなくて。何のために描いてるんだろう。

 「あーあ、こりゃだめだ」

 自分で台無しにした絵を掲げぽつりとこぼすと、伊賀倉は失敗した紙をめくって端からぺりぺりとちぎり取っていく。端に空いた穴が破れリングがひとつずつ外れていく。下から露わになった表面が日差しをまぶしいくらいに反射している。

 「あれ」

 完全に破り取ったところで、何か気になったのかスケッチブックの残りのページの厚みを確認している。それからぱたんと閉じて、くすんだ緑の表紙を眺め、使用済みのページをぱらぱらとめくった。小さく風が躍る。隙間から見えるデッサンはどれも色調が濃いめで力強い。

 「これ、綾瀬のじゃん」
 「間違えた、急いで追ってきたから」

 伊賀倉の横にはもう1冊スケッチブックが置いてある。そちらが彼のに違いない。

 「なんで綾瀬の持ってるの?」

 部員のスケッチブックはひとり1冊。普段は美術準備室の棚に入れて、他人のものには触れる機会すらないのに。不審に思っていると、伊賀倉がたまたま止めたページに目を奪われた。


 りんごと布、油絵の具のセットのデッサン。誰が見ても「へたくそ」とは評さないだろう。正確に形が取れているし、光の加減や質感の違いが繊細に表現されている。線はどれもあるべきところにあるべき形で配置され、迷いの痕跡がない。絵全体にどことなくこなれた雰囲気がある、「うまい人のデッサン」だ。


 だが、そのモチーフの周り、本来なら空いているはずのスペースにぎっちりと細かな文字が埋め尽くされている。一字ずつは印刷したように整っているが、公園の端を並んで這う蟻のように字間も行間も狭い。強弱濃淡豊かなデッサンを囲む一律な記号の集合体は異様な威圧感を放っていた。

 『りんごの自然なツヤ感とワインボトルの人工的なツヤ感。表現が同じでのっぺりする』

 『光が当たっている部分の輪郭線が濃すぎる』

 『ボトルの映り込み、描き込みが甘い。特にくびれもラベルもない部分はグラデーションの変化が乏しく単調』

 『布のしわとまっすぐなところ、変化が突然。なだらかに。絵具セットの奥、チェック柄の角度が狂っている』

 夕焼けの海に溶けたごみ袋を見つけ出すように、ほとんど完成された絵の中からほころびを見つけひとつひとつ丁寧に掬いあげていた。

 「このアドバイス、伊賀倉が?」
 こくんと頷き、いとおしそうに紙の端をなでる。

 「少し見てもいいかな?」
 

 と聞くと、何も言わずにそっと寄越した。汚さないようやさしく捲っていく。

 「去年の冬か、1枚描くたびに俺のところに持ってくるようになった。気づいたことは全部ここに書いてくれって。今日も預かってたんだよ」

 次に現れたヘルメスの胸像も、その次のスズメも、伊賀倉の横顔も、美術室の蛇口も、絵里子から見ればどれも十分な出来だったが、すべてにおびただしいほどのアドバイスが書き込まれていた。

 「あの綾瀬が……」

 手が汗ばむのを感じて画用紙に触れていた指を離した。角は少しよれ、湿った部分が白く光った。


 絵里子が苦手な綾瀬。自分が劣ることを少しも想定していない、自信に満ちた発言。己の力だけでどこまででも生き延びそうな生命力。その綾瀬が他人を頼っているということが意外だった。

 彼も気づいていたのだ、伊賀倉の才能に。そしてそれが自分の遥か上にあることも。

 どんな気分だったろう。自分の中にあると信じていた才能が、実はとんでもなくありきたりなものだと突き付けられたときは。

 

 それでも綾瀬は目の前の白い紙に、どこまでも誠実だった。プライドをかなぐり捨て、自分がかなわないことを認めた。才能のエキスを血肉に取り込もうと頭を下げ、生み出したものを丸ごと批評のもとに晒した。


 すべてはよりよい絵を描くために。


 それに比べて絵里子は、何をしていたんだろう。あと数ヶ月で部長になるというのに。情けなくて、このまま溶けてさらわれて、消えてしまいそうだった。振り切るようにスケッチブックを閉じる。


 「伊賀倉の言う通り、まずは全員描こう。その作品の出来だけで決めよう」

 表紙を相手に向けて返す。

 「だから出展者は保留で」

 伊賀倉は困ったように眉間にしわを寄せた。

 「確かに描いてから決めれば、とは言ったけど、保留にしなくてもいいよ」
 「なんで」
 「言っただろ?俺は出さない。デッサンしたいだけなんだよ。色は塗りたくない」

 会議の時は気を遣ってつけた適当な理由だと思っていた。思い返せば伊賀倉が筆を握っているのを見たことがない。芸術の授業は書道を選択しているし、あながち本当に思っているのかもしれない。

 「私に逃げるなって言ったところじゃん。自分だけ描かないの?」
 「逃げてるよって教えたけど、逃げるなとは言ってない。俺は逃げる」

 ぎゅっと口角が結ばれる。顎のほくろが小さく動く。絵里子から目をそらし、ベンチの木目を指でなぞっている。

 「だめだよ。伊賀倉もちゃんと1枚描いて。それで私よりへたくそだったら、まあ、あきらめてもらうけど」
 「あきらめるもなにも別に出さなくたっていいんだって」

 しつこいと思ったのか、スケッチブックを2冊束ねて立ち上がる。自分のことは棚に上げて逃げるつもりか。

 絵里子は思わず伊賀倉のシャツの袖をつかんでいた。鉛で黒ずんだそれにはしっかりと彼の熱がこもっていた。


 「いいじゃん、塗りたくなかったら、塗らずに出せば」
 「は?」

 伊賀倉がばっと振り返り、シャツが指先から離れた。怪訝そうに絵里子を見下ろす。

 「油彩も白と黒、2色で描けば」
 「聞いたことないよ」
 「なおさらいいじゃん」
 「絵の具と鉛筆じゃ勝手が違うの」
 「好きなんだもん」
 「え」

 戸惑う伊賀倉を見ながら、体の内側に熱が帯びていくのを感じていた。春風が火照った頬を冷ましていく。


 「伊賀倉の絵が好きなんだよ。それが何色だってかまわない。好きなの」

 彼の顔から表情が抜けていく。いつものとぼけたような真顔で、目をぱちぱちさせていた。

 「私もちゃんと覚悟を決める。どんな結果になっても受け入れる。受け入れて、少しでもうまくなるように努力する。だから伊賀倉も逃げないでよ」
 

 自分でもびっくりするくらい支離滅裂な理屈で説得していて、少し笑ってしまった。でも伊賀倉だって滅茶苦茶だ。彼は最初から絵里子に綾瀬の絵を見せるつもりだった。

 悩んだり、ひがんだりする前に、描けよ。

 そう、伝えるために。じゃなきゃスケッチブックを2冊も持ってくる必要なんてないんだから。


 「最後の秋」はまだ夏の向こう側にある。

 せっかく部長になるのだ。こんなふうにひとりずつ向き合っていこう。いっぱい話して信頼してもらって、絵里子が知らない思いや技術を教えてもらおう。全部吸収して、足りない才能は埋め合わせていけばいい。

 遠くからぎこちない『春風』が吹いてくる。


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