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絶望の11番(短編連作『今日も今日とて私を生きる』 )


 茉紀の手からひったくった5センチ四方の紙片をぐしゃっと握りつぶす。目を見開き口をあんぐりさせた親友を前に、萌は頭の中でつぶやいた。


 あー、もう人生終わった。
 

 机を移動させる音がぴたりとやみ、クラス中の視線がふたりに向けられる。教室を満たしていた笑い声はしゅるしゅると小さくなった。

 あーあ、ここまでうまくやってきたのに。
 あと1年と4か月だったのに。

 「もうこんなことやめようよ」

 それほど大きな声を出したつもりはなかったが、思いのほかよく響いた。クラスメイトのまなざしが細い針となって背中にちくちくと刺さる。締まりなく、それでいて息の詰まるような生ぬるい静寂。

 茉紀は眉根を寄せ、不快感を隠そうともしない。

 「公正に席替えしようよ。よくないと思う、先生が見ていない間にくじを交換して好きなもの同士で座るの」
 「萌、急にどうしたの?先月も、先々月も、ずっとやってるじゃん。どうして今さらそんなこと言いだすの」
 「今さら、じゃなくて今なら、先生にばれる前にやめられるじゃん」
 「先生、先生って!」

 茉紀があきれたと言わんばかりに首を振り肩を落とす。

 「私、萌の後ろの席に座りたいから前園さんとかわってもらったのに、自分だけ優等生アピール?そんなの抜け駆けじゃん」

 何から、どこに、抜けるというのか。
 茉紀が勝手に交換してもらっただけだなのに。

 こぶしをゆるりと開く。番号が書かれたくじはしわくちゃだった。

 窓際から引きずってくる途中の茉紀の机はまだ教室の床のマス目に対して斜めに置かれている。昔の生徒が彫刻刀かコンパスの針で彫ったのだろう。角にできた深い穴が、黒々と、こちらをにらんでいる。

 お前めんどくせえな、空気読めよ、ひとりだけいい子ぶってしゃしゃんな。

 穴が語りかけてくる。
 わんわんと鼓膜の内側で反響する。
 
 握っていた紙でふさいだ。

 あーあ。
 これで全部、台無し。終わった。

 小学生の頃は目についた“悪”ひとつひとつを取りたてて追及していた。授業中にこそこそ話をする女子を咎め、掃除をサボる男子に喧嘩を売り、変なあだ名をつけてじゃれ合うグループは叱りつけた。
 
 たとえ自分は悪いことをしていなくても、わかっていて見過ごすとよくないことをした気分になる。夜、布団の中でふと思い出して、罪悪感で眠れないこともよくあった。

 だから、つい口をはさんでしまう。黙っているだけでいやな思いをするのに、当の彼らはさほど気にしていないのも不満だった。

 おかげで通信簿は良かったものの、同級生たちからの評価は「空気読めない」「成績のために仲間を売る」「めんどくさいやつ」と最悪。いくら成績が良くても、まともに心許せる人がいない学校生活は、結局息苦しい。

 だから中学に入学したその日に誓ったのだ。みんなが先生の言うことを無視しても、大人が見ていないからとなまけても、もう二度と口出ししない。彼らにあわせよう。少なくとも正義感を発動させ、たしなめるようなまねはしないと。

 それなのに、こんなささいなことで我慢できなくなってしまうとは自分でもあきれるしかない。

 1学期最後の席替え、目立つ男子のグループがいんちきを始めた。生徒にくじを引かせると、担任の土屋先生は机を動かしている間にいったん職員室に戻る。その隙を見て番号の書かれた紙を交換し、仲間同士で固まるように席順を組むのだ。くじの紙はいちいち確認されるようなこともないので、先生にはばれない。

 次の時には目ざとく見つけた女子たちが真似をして、瞬く間にクラス中に広まっていった。

 前回はついに親友の茉紀も萌のそばに机を持ってきた。戻ってきた先生に「おお、そこは仲良し2人組がそろったのか」と驚かれたときはひやりとしたが、机を合わせてグループで話し合う授業はとても楽だし、休憩時間も移動しなくて済む。一瞬の罪悪感さえ我慢すれば、残りの1か月はいいことばかり。たとえ先生にばれたとしても、楽しかった1か月が楽しくなくなるわけじゃない。組み込まれていた正義感はじわじわとまひしていった。


 きっかけは伊賀倉がまた一番前の真ん中の席に座っていたからだ。
 
 これで4回連続だ。
 
 常に先生の監視の目にさらされ、授業が始まると「前回どこまでやった?」とノートを覗かれるこの席は「絶望の11番」と呼ばれる。引いた生徒はどうにかして交換してもらいたくて伊賀倉に持ちかける。そして彼もなぜか大人しくそれに応じる。

 いつも一人でいて、それでいて焦っているふうでもなく、自分から声をかけにいく様子もない、ただそこにいるだけの、暗い男子。

 みんなが彼にせがむのは、どうせこいつには一緒に悪さをする友達もいないんだから、とどこか下に見ているからなんだと思う。

 新しい席からふと顔を上げた瞬間、伊賀倉が視界に入った。みんなが机を抱え移動する中その必要もなく、定位置に座って黒板に貼られた座席表をじっと見つめていた。

 途端にもやもやしたものが胸に込みあげてきた。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、叫びだしたいような気分になった。

 「交換してもらっちゃった」

 後ろから茉紀が無邪気にくじを見せてきて、気づいたらひったくっていった。

 本当は伊賀倉だっていやなんじゃないか。都合よく押しつけておいて、いつも甘い蜜だけ吸っている連中がいるなんて。萌だったら耐えられない。

 頭を占拠していたのはばれて叱られる怖さではなく、不公平に対する怒りだった。眠っていた正義感は久々の戦場に奮い立っていた。

 「みんなが好きな人と座れるんだからいいじゃない」

 茉紀がどんっと机に手をついた。

 「私は前園さんと交換して萌の後ろ、前園さんは平垣さんの前。ウィンウィンでしょ?」
 「このトレードがうまくいっただけ。全員が希望の席になっているわけじゃない。断れなくてもっといやな席になった人もいると思う」
 「そんなの、いいよって言っちゃったんだったら仕方ないじゃん。断れない方が悪いよ」

 肩越しにちらりと伊賀倉を確認する。他のクラスメイトはみんな、萌と茉紀に注目しているのに、彼だけは何事も起きていないかのようにぼんやりと宙を見ていた。


 「今断れない人を甘やかすと大人になっても断れないままだよ」
 「大人になっても……」

 そう、と頷きながら腕を組む茉紀に視線を戻す。

 「大人になって働いてからもどうせ断れなくていやな仕事ばかり引き受けちゃうんだよ。だったら今のうちに練習した方がいいんじゃないの」

 まるで大人みたいな口調の茉紀は、大人になったことでもあるんだろうか。茉紀は何を知っていて、どの立場でそんなことが言えるのだろう。

 そう疑問に思う反面、自分は大人になっても空気の読めないやつなのかもしれない、と想像して泣きたくなってしまった。

 萌はいつまでも正義感をうまく操れない人生を、伊賀倉は苦い部分ばかりを味わう人生を、生きていくのだ、きっと。

 「伊賀倉くんは!」

 鼻の頭のあたりがじわっと熱くなって、とっさに声を荒げていた。がたんっといすがぶつかる音がする。突然名前を呼ばれてびっくりしたのだろう。

 「伊賀倉くんだって、いつもその席じゃいやでしょ?」

 今度は一斉に伊賀倉に視線が集まる。彼はようやく黒板から顔を背け、自分を囲む目を順々に見まわしていった。その間、表情筋は微動だにしない。何らの感情も読み取ることができないその真顔はむしろ“無顔”と呼んだ方がぴったりくる。


 そういえば感情表現がきわめて乏しいやつだったような気がする。授業中に先生がどんなに面白いボケをしても笑わないし、長期休暇の前に大量の宿題を出されても平気な顔をしている。いじめられているとかきらわれているとかそういう次元ではなく、なにを考えているかわからない近寄りがたさがあるのだ。


 「俺は……」

 ほとんどひとりごとのような小声でつぶやく。みんなが耳に神経を集中させる。


 「俺はこの席好きだから」

 え、と思わず聞き返していた。

 「俺は、この席、好きだから」

 聞こえていないと思ったのか、先ほどより声を張り、文節ごとに区切って発声した。が、聞こえてはいる。

 拍子抜けだ。

 背後でほら、と茉紀が勝ち誇ったようにささやく。

 伊賀倉のために親友を失い、1年8か月の努力を無駄にしたというのに。

 「信じられない。この恩知らず」

 足の裏から力がするすると抜けていき、そのまま椅子に座りこんだ。罵倒された伊賀倉はちょっと首をかしげたが、すぐに前に向き直った。

 張りつめていたものが緩み、教室全体が音を取り戻していく。机といすの金属部分が当たる音、引き出しの中の教科書が上下する音。ひそめた声がだんだんと遠慮のない笑いに戻っていく。後ろで茉紀が机の位置を整えていた。




 「ねえ」

 先生に言われるがまま教科書の例文の「to call」に波線を引いていたら、茉紀に背中をつつかれた。触感が硬かったからシャーペンの後ろだったのかもしれない。目立たないよううつむき気味に振り返る。

 「これ」
 

 音のほとんど混ざっていない息に近い声。すっと肩のあたりに何かが差しだされる。教壇をうかがって土屋先生が黒板にチョークを走らせているのを確認。目をノートに向けたまま受け取った。

 長方形に折り込まれたルーズリーフ。対称の2つの角に紙の先が差し込まれ、開かないようになっている。裏返すと『Dear. Chihiro』と書かれていた。千尋まで回してくれ、ということだろう。もかしたら自分の悪口も書かれているんじゃないか、と照明に透かしてみたが、ほとんど読めなかった。

 千尋の席は一番前の窓際。萌が廊下側の真ん中あたりだから、横か前に渡す。左に首を傾けると、八重樫くんと目が合ったがすぐにそらされた。ほとんど話したことがないし、めんどうなことに関わりたくないのだろう。渡された時点で加担してしまうから、こんなこと萌だって本当はしたくない。


 丁重にたたまれた手の中の紙は時限爆弾みたいなものだ。

 仕方ないので、目の前の武田さんの肩を指先で叩いた。彼女もその前の長谷川さんも男子と仲が良いので、どちらかが横の列に回してくれるだろう。武田さんは手紙を見せると何も言わなくても受け取ってくれた。流れるように長谷川さんへ。


 自分の視界から見えなくなるとようやくほっと一息つける。あまりゆくえを追いすぎても怪しい。じっとノートの罫線に焦点を合わせる。

 あれは風、風に勉強の邪魔をされてしまっただけ。

 そうやって言い聞かせ、吠えようとする罪悪感をしずめる。オレンジ色のペンに持ち替え、「call」の下に「原形」と書いてみると、邪念はそっと息をひそめていった。

 「あ、え」

 無心で黒板を写していると、後ろで茉紀が動揺し始めた。先生には聞こえない程度の喉もとだけで転がしたみたいな声。

 反射的に顔を上げると、一番前の席の佐藤さんが伊賀倉の机の端に手紙を置こうとしているところだった。まさか最前列を経由するコースを選ぶとは。リスクが高すぎる。茉紀が気が気でないのも分からなくはない。

 伊賀倉が手紙の存在に気付いた。佐藤さんは手放すと光の速さで腕を引っ込め、席に収まった。先生は教科書の長文を読み上げながら、黒板に重要な文章だけを抜き書きしている。 窓際まで送るなら今がチャンスだ。

 伊賀倉は入り込んだ虫を相手にするみたいに数秒手紙を観察してから、そっと手に取った。宛先の書かれた裏面を向け、ゆっくりと首をかしげる。隣の人に渡す様子がないので、もしかしたら女子の下の名前まで覚えていないのかもしれない。

 どうするんだろう、と佐藤さんを見てみる。彼女はもう一度リスクをおかして説明すべきか、彼が自分で解決すると信じて放っておくべきか迷って明らかに挙動不審だった。

 伊賀倉は右手で持ってみたり、左手に持ち替えてみたり、珍しい宝石でも扱うかのように一通り眺めている。


 「ちょっと、伊賀倉、なにしてんのよ」

 茉紀がひとりでいら立っている。つまさきで机をトントン叩くので、気になって彼女の方を見た。

 すると般若のようだった彼女の顔が、目はだんだんまんまるに、眉はきれいに弧をえがく。口がだらしなく開いて、肌の表面からはさっと血の気がさっと引き、まるでひょっとこみたいに間抜けになった。

 彼女の視線の先をたどる。萌の口からも気の抜けた声が出た。

 伊賀倉が手紙を開けていた。


 後ろで茉紀が何度も腰を浮かせている。友達への手紙を読まれるのは阻止したいけれど、授業中に回しているのを先生にばれては元も子もない。これが後ろの席ならこそっと回収できるのかもしれないが、一番前のセンターじゃそうもいかない。

 思い直していったんは座るが、手を組み合わせたり、膝を叩いたり、髪をがしがししたり、落ち着きがないので、周りの席の人も異変に気づき始める。伊賀倉はその間にも器用に折りたたまれていたルーズリーフをひろげきり、顔の前に掲げ、時々目に近づけて読んでいく。

 「え、なんで、なんで、なんで」
 

 他人の手紙を盗み見る神経が理解できない茉紀は小声でずっと同じことばかり口走っている。今やto不定詞について考えている生徒は誰もいない。みんなが伊賀倉に気を取られていた。

 「おい」

 なめらかに読み上げられていた英文が止まる。隣のクラスが盛り上がっている声だけが不自然に遠く響いた。


 「お前、授業中になに読んでるんだ」

 黒板を向いていたはずの土屋先生は、しっかりと伊賀倉を見下ろしていた。手紙から顔を上げる伊賀倉はとがめられているとは思えないほど冷めている。相変わらず表情筋はぴくりとも動かない。

 ひっ、と悲鳴を上げたのは安全地帯にいるはずの茉紀だった。

 「俺宛に回ってきたから、読んでるんです」
 「だからといって授業をおろそかにしちゃいかんだろう」
 「まあそうですね」
 「没収だ」
 「あ、どうぞ」

 落ちた消しゴムを拾ってあげるみたいに、ためらいもなく手紙を先生に差し出す。

 渡る寸前のところで、茉紀が勢いよく立ち上がった。いすが後ろの席にぶつかって、カンッと耳をつんざくような音が鳴った。

 「あんた宛じゃないわよ!」

 つかつかと前に進み出る。没収されれば茉紀が差出人だということはすぐに先生にもわかる。どうせばれるなら足掻いてやれ、くらいの気持ちなのだろうか。いくらやけくそとはいえ、伊賀倉への文句なら授業後でもいいのに。頭に血が上ったのか、それとも相当動揺したのか。


 「私があんたに手紙なんか書くわけないじゃん」
 

 「絶望の11番」の横まで来て茉紀が吼える。伊賀倉はなんで怒っているのか理解できないといった感じで首を傾げ、まじまじと真っ赤になった同級生の顔を見上げている。

 「でも、ほら、ここ、俺の名前」


 伊賀倉が文字の詰まっていない面を茉紀に向け、紙の中央あたりを指さした。萌の席から鉛筆の薄い文字は見えないが、そこには羽佐間千尋の名前が記されていたはずだ。それをほとんどかかわりのない伊賀倉が自分宛と勘違いするだろうか。

 そのとき、教室に大きな風が流れ込んで、廊下側の窓一面に貼られた半紙がふわりとふくらんだ。

 その一番上の真ん中。ひときわ整った、ほとんどお手本のような字。

 『一陽来復 伊賀倉知央』

 はっとした。手紙に書かれていたのは『Chihiro』。伊賀倉の下の名前も漢字は違えど音は『Chihiro』だったのだ。


 「だからって伊賀倉宛なわけないでしょ!自意識過剰なんじゃない?」

 茉紀が伊賀倉の手から紙を奪い取る。

 「羽佐間千尋に宛てたの、は、ざ、ま、ち、ひ、ろ、に!」

 ふるえる指で折り目にあわせ、たたみ直していく。
 その必死な形相を前に、伊賀倉は、ほんの少しだけ口角を上げた。ような気がした。


 「へーえ、羽佐間さんだったんだ」

 無関心を装った、わざとらしい抑揚。紙を折る茉紀の手が止まる。念を送るような茉紀の眼光、鉄壁のような伊賀倉の無表情。ふたりの間に見えない閃光が走ったような気がした。

 
 「森本さん、次の席替えは羽佐間さんの後ろに座る約束をしていたんだね」

 教室中が息を呑んだ。

 「席替え、約束……」

 やりとりを見守っていた先生の眉間に深いしわが刻まれる。

 「その手紙に書いてあっただろ?よかったー、俺、一緒に座ろうって誘われてるのかと思った!」

 先生だってだてに何年も教師をやっているわけじゃない。ここまで情報があれば、クラス内で何が行われていたか察しはついてただろう。生徒の並びを見れば、それが決してほんの一部の話ではないことも。

 だから茉紀は焦って授業中にもかかわらず立ち上がったのだ。手紙を読まれたら、席替えの不正がばれるから。茉紀のせいでクラスメイト全員が叱られることになれば、そのあと陰で何を言われるか。いちるの可能性にかけて手紙の回収を試みた。

 が、伊賀倉はそれを許さなかった。

 「だからなんで私が伊賀倉に」
 「だって、俺の名前が書いてたんだもん」

 伊賀倉は悪びれもせず、淡々と言葉を返していく。
 
 萌はといえばどさくさ紛れに友達に見捨てられていたことが判明したわけだが、追い込まれる茉紀の姿を見れば寂しさも悔しさも湧いてはこなかった。あるのはほんのり苦い、あわれみだけ。

 「伊賀倉、あんたのせいで、あんたのせいで私は」

 茉紀が唇をかみしめる。声はやり場のない怒りと涙でふるえていた。

 伊賀倉を正しく責められる人なんていなかった。彼が手紙を開けてしまったのは、勘違いだったんだから。


 「私は、人生、終わりだ」

 あふれる涙を手で拭いながら、茉紀はその場にしゃがみこんだ。

 「練習した方がいいんじゃないの?」

 伊賀倉がいすを引きなおしながらつぶやく。

 「練習?」

 シャーペンを手に取り、黒板とノートを見比べる。まるでもう茉紀などそこにいないかのように、ひとりで授業を再開しようとしていた。

 「誰かと一緒じゃなきゃ授業も受けられない人は」

 先生が教壇を降りて茉紀の隣にしゃがむ。

 「大人になっても一人じゃなにもできないでしょ?」

 しばらくは茉紀のすすり泣きだけが響いた。萌はぼんやりと伊賀倉の曲がった背中を眺めていた。彼は動じることもなくペンを走らせている。ああやって何にも興味がないようなふりをして、萌と茉紀のやりとりはしっかり聞いていたのだ。

 茉紀が傷ついた言葉は、他の誰でもなく、茉紀自身が放った言葉だった。だからやっぱり、誰も伊賀倉を責めることはできない。


 両手を固く握っていたことに気付いた。てらてらと汗が光る手のひらに爪の食いこんだ跡がくっきりと残っている。


 本当は全部、彼の手のうちだったのかもしれない。いくらなんでも身に覚えのない手紙を開けるなんて鈍感すぎる。最初から伊賀倉は羽佐間千尋宛だということは、百も承知だったんじゃないか。そのうえで、あの席なら茉紀が後ろからとめにこないことも、振り返った先生の目に必ずとまることも、全部想定して。

 「絶望の11番」を逆手に取った返り討ちだったのだ。

 土屋先生は茉紀を外に連れ出しながらもぬかりなく手紙を没収していた。近いうちにホームルームが開かれることになるだろう。教室は騒然としていたが、誰も会話をする気にはなれなかった。ひどく疲れて、伊賀倉や茉紀の陰口をたたく気力もなかった。

 萌だけが頭の中に浮かんだ「返り討ち」の違和感がいつまでも引っかかっていた。

 茉紀と伊賀倉はほとんど言葉を交わしたことがない。いくら一番前の席ばかり押しつけられていたからといって、わざわざ茉紀を追い込む理由なんてなかった。

 じゃあ理由をつくったのは、誰だ。
 茉紀に言い負かされて泣き寝入りしたのは?
 彼女の言葉に傷ついたのは?
 もしあの手紙が千尋のもとに届いていたら、仲間外れにされていたかもしれないのは?

 このクラスの中にたったひとり、萌だけだ。

 つまり伊賀倉は、萌ために、敵を討とうとしたのだ。

 唐突に訪れた結論に、汗ばんだ右腕が少ししびれた。

 あれほど波乱を呼んだ授業の後の休憩時間は、思いのほか和やかだった。茉紀は今頃職員室で聞きだされているだろうが、他のクラスメイトはいつも通りくだらないおしゃべりをして、次の数学の宿題を大急ぎでやって、かたまってトイレに行った。

 萌は教卓に積み上げられた英語のノートを束ねていた。きちんと板書しているか不定期に提出させられる。萌の出席番号と今日の日付が同じだったので、まとめて職員室に持っていくよう頼まれてしまったのだ。角を整えていると、学校指定のきいろの背表紙の中に一冊違う色が混ざっていることに気づく。抜き出して一番上に持ってくる。明るい黄緑色の表紙に書かれた名前は印字したかのように美しかった。


 「伊賀倉くん、みどりは理科のノートだよ。英語はきいろ」

 教卓の向こうに差し出すと、うとうとしていた伊賀倉がぴくりと跳ねた。あわてて引き出しを開け、英語のノートを取り出し広げる。

 「あ」

 上からのぞくと前回の授業分までしか書かれていない。提出だけでなく板書も理科のノートにしてしまったらしい。

 「席替えの後で急いでいたから」

 萌から受け取ったものと2冊並べて書き写していく。騒動のせいでページの半分くらいしか進んでいない。ハイスピードでやれば間に合うかもしれない。黒板でも消して待っていようと黒板消しを手に取った。

 「いいよ、先持っていって」

 伊賀倉は視線をノートに落としたまま繰り返した。

 「間に合わないかもしれないし、先、持っていっていいよ」

 うつむいた瞳に長いまつげがかかっている。パーマのかかった前髪がやわらかく風に揺れた。なにも答えないでいると、不安げな目がこちらを向く。口元のほくろに初めて気づいた。

 「だめだよ。ちゃんとノートは取ってたのに。成績が落ちる」

 黒板消しをいったん戻し、空いている隣の席に座る。

 「は?」
 「私が横で読みあげるから。その方が早く書けるでしょ」

 呆気にとられる伊賀倉の肘の下から理科のノートを引き抜いた。余計な色や装飾もなくシンプルにまとめられている。英文の下に引かれた波線の凹凸の幅や高ささえ均等に整っていた。

 「ほら、ぼーっとしてないで、じゃあ続きから」
 「お、おう、本当にいいのか?」

 伊賀倉が戸惑いながらもシャーペンを握り直す。

 「最悪、走れば間に合うよ」
 「悪い生徒だな。廊下は走っちゃいけないんだよ」

 横顔が、少しだけ笑ったような気がした。口角の動きに合わせてほくろが歪むのを見ながら、職員室で茉紀に会ったらちゃんと声を掛けよう、と思った。

 数学の宿題やった?
 今日は風が強いね。
 お弁当のりんご、分けてあげるね。

 どれも不自然でちぐはぐだし、こりずに声を掛けるなんてまた優等生ぶってって怒られるかもしれない。

 けど、なんだっていい。このまま友達を見捨てた日の夜は、いろんな悪いものに押しつぶされてきっと眠れなくなるだろう。

 どうせ残りの1年と4か月も、空気なんて読めっこないんだから。いっそのこと萌の「絶望の正義感」が誰かを救うまで、思う存分暴れてやればいいのだ。


→02「春風のマーチ」


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