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パニック障害になった私が決めている3つのルール


「治るのに10年かかりますよ」

異世界に飛ばされたような、白い部屋だった。


・・・


これはおよそ10年前、私がパニック障害と診断されてから現在までの軌跡です。
私は専門家ではありません。文献を読む気分ではなく、ひとりのエッセイを覗く心で読み進めてくれたら幸いです。


・・・


朝起きる、というよりは"気がつく"ような状態が続いた。

身体の隅々まで疲れきっているはずが、心が休まらないかぎり、私の身体は眠ってはくれなかった。所謂"気絶"を毎日繰り返していたと思う。

身体中が震えた。
特に手が震え、足が震えた。歯が奥の方から勝手にガタガタと動き出す。震えは次第に、しびれに変わった。そして数分後には腕全体が、自分のものではなくなっているかのように冷たく、鉛のようになった。

そして、呼吸が早まる——。
というより、"呼吸できない"と思う感じだ。


考えうる最悪な妄想が、身体と臓器を蝕まれていくイメージだった。真冬であろうと、汗が止まらなかった。涙とそれは混じり、苦く私の口元に運ばれていく。

そんな「悪夢」は、30分もあれば終わった。演技かのように。
そんな自分が怖くて、他人のようで、人形のようだった。
シーツは ぐしゃりと汚れたままとなり、部屋には生ごみや空き缶が散らかっている。


・・・


新卒で入った会社で、私はわかりやすく疲弊していた。
体育会系気質の業界に入ったが、まあなんとかなるだろうくらいに考えていた。厳しさは、元気で乗り切れると思っていた。私は浅はか中の浅はかである。その頃の私は、うつ病というものすら、落ちてくるはずのない隕石くらいに捉えていた。そう思えるくらい、私は幼少期から多くのものに守られて生きてきたのだと思う。


私はその会社員当時、自分の無能さに辟易した。
こんなにも私はできなくて、ちっぽけなのだと思った。

今思えば、新卒で入った人間が、そんなにすぐ活躍できるはずもなく、ある意味特別な成果など期待されていなかったことは、やっと"大人びた"今になってわかる。

とはいえ、毎日罵詈雑言を浴び、自分のミスでもないのにお客様のクレーム(こちらも罵詈雑言)を聞く日々が続けば、無能、無力と感じざるを得なかった。

日々通勤電車で涙が止まらなかった。
駅から会社までの道のりですら、止まらなかった。
社内ですら、パソコンの影に隠れて——

トイレに行くふりをして、会社の外で鳴咽した。
その頃から、、いや、もっと前から"始まっていた"だろう。


細い細い糸が、すっと、音も立てずに切れた。
ある日、電車に乗ろうと駅に向かう途中、私の視界はドス黒いアスファルトでいっぱいになった。

身体にひとつも傷がついていなかったのに、私は救急車で運ばれていた。私の考える世界の救急車は「身体を怪我した人を運んでくれる車」だった。無傷の私は、気づけば白い世界にいた。



救急車で運ばれ、私はその日会社を休んだ。
それからも数ヶ月、私は会社から姿を消した。
そのまま、その会社を退職した。

消えて、なくなりたかった。

「一回休みましょう」と運ばれた先の病院で言われ、その「一回」という意味も、「休みましょう」という意味もよくわからなかった。一回はどこまでで、休むとは、どんな状態かを考えられる身体と心ですらなかったように思う。

後日、私はすすめられた精神科に行った。
流れているのかわからないくらいの音で、ピアノの鍵盤のような曲が流れていた。



「○○さ〜ん」

私の名前が呼ばれた。こんなにも優しく自分の名前を呼ばれたのは久しぶりだった。

白い部屋に案内される。
おぼろげだが、60代くらいの、絵に描いたようなお医者さんがいた。そこで私は、うつ病とパニック障害と診断され、そうして言われる。



「治るのに10年かかりますよ」



最初そう言われた時は、とんでもないことになってしまったと思った。

怪我——例えば骨折だったら、部位にもよるかもしれないが、数週間、数ヶ月で治ることが多いだろう。

しかし私はどうだ。
10年!?適当言うんじゃない!と思っていたような思っていなかったような。その頃の私には、何も判断能力がなかっただろう。


いずれにしても、今になって思う。

その10年は本当に「適当」だったのだと思う。学校の問題文でもよく見る、"適当なものを選びなさい"の時の「適当」である。

自分は弱くて、普通に働くことなんてきっともう一生できないと思った。

劣等感が止まらなくて、誰かの顔を見て楽しくお話をする日々なんて、それはそれはとんでもない幸福で——



・・・



あれから、およそ10年が経とうとしている。

私の生活は変わった。
それも本当に、つい最近の話だ。

朝7時になると、自然と目が開いた。
ゆっくりと、日々を思い出しながら。
"起きる"という幸せがそこにはあった——

まずは身体を横にしたまま伸びをした。ぐーっと、ぐーっと伸びをする。起き上がる前にそうすることで、1日が快活な感じがする。
こうすると良いことは、どこかで知ったが、どこで見たか忘れてしまった。本当に良いのかも今やわからない。

私にとっては、どれが、どんな風に効果があるのかはさして問題ではないのかもしれない。パニック障害になった自分は、よくもわるくも、自己暗示の力が凄まじいと思う。



いろんな職を転々とし、今は福祉系の会社に勤めている。パニック障害になってから、私は少しずつ"階段を降りる"ようにして、仕事の量だったり責任の少ない仕事を選んでいった。

ただ、いまならわかる。
私は"階段を上がっていた"ということを。


お給料はどんどん減っていった。しかし私はとんでもなく豊かになっていった。分相応に生きた。アルバイトだけの時期であっても、私は自立したままだった。家賃を払い、光熱費を払い、携帯代を払い、税金を払い、あらゆるものを支払った後でも、ごはんを食べられた。贅沢は一切なかったが、日々の全てが今は「贅沢」だと思い、日常を謳歌している。



そして、今から数ヶ月前。
本当の意味で一歩、私は階段を上がった。私はアルバイトから、しっかりとした会社勤めを始めていたのだ。

何か大きなきっかけがあったわけでもない。その間、何度も、それは何度もパニック発作に襲われ、数十回と救急車に運ばれていた。家で倒れ、街で倒れ、私は多くの方に迷惑をかけた。そうして10年が経とうとしている今頃、私は自分に合う"環境"を選び、瑞々しく、麗しい日々を送れている。

これはなにも派手で、豪華で、お金使いの荒い日々では当然ない。


例えばこうだ。

朝起きて、顔をしっかりと洗い、髪を整え歯を磨き、シワのないきちんと洗濯やクリーニングをされた衣服を纏い、朝食をとる。

ゆっくりと、そして確実に歩を進め、私は電車に乗り込む。車窓を何となく眺めたり、スマホを見たりしている。

失敗がありながらも、少しずつ成長しながら業務をこなしていった。従業員の方達とは自然と目を合わせ、顔を綻ばせながら。

家に帰り、シャワーを浴びる。夕食を取り、その後は趣味の時間にあて、私は布団をあたたかくかぶり、眠った——



なんと瑞々しく、麗しい日々だろう。あらゆる幸福が、私の生活には詰まっているではないだろうか。


気づけば最後にパニック発作になり、救急車で運ばれるまでになった日は忘れてしまった。数年前だったように思う。それでもたまに、悪夢にうなされ、電車で息が少しだけ荒くなる時もある。

私はまだ、治っていないのだと思う。たぶん、10年以上経っても治らない。治す気がないわけでもない。でも、もう一生治らなくてもいいと思っているし、私はそもそも、パニック障害ではなかったのだと自覚する日もある。やっとここまできて、そう思えている。


病名がついて、安心する人もいるだろう。

病名があるから、原因を突き止め、回復に向かうこともできるだろう。ただ私は医学的な知識は何もなければ、ずっと自己暗示で生きてきた。誰だって、日々罵詈雑言を浴び、人格を否定され、暴力を振るわれ、いない人間のように扱われたら誰だって「涙」は出るだろう。

そうされることによって、見返してやる!とか、なにくそ!と思える人もいるかもしれない。だとしても、見えない傷を負っているはずだ。そしてこれは驕りかもしれないが、私にはその傷が、誰かのものでもほんの少しだけ見える人間になれた。今思えば、やっと、わるくない経験だったと思う。


私は生きている。

今まで、とんでもなく色々なことがあった。


とにかく"環境"を変え続ける行動をした。

職場を変えたり、部屋を変えた。
歩く道を変えた。過ごす時間を変えた。

自分の努力や成長ももちろん大切だろう。ただ環境のせいにしたっていいのだ。というより、ほとんど人間、環境で気持ちは変わる。落ち着けたら、その環境でい続けたらいい。



ここまで長くなったが、やっと本題。

そんな私がおよそ10年経験をしたからこそ、今人生で決めている3つのルールがある。






それはこうだ。

  1. とにかく寝る

  2. 自分の世界だけで生きすぎない

  3. 苦しそうにしている人を素通りしない


である。





まずは1番の、「とにかく寝る」だ。


——いやわかる。
眠りたくても寝られないのだ。

私はさっき書いたように、ずっと寝られなかった。
寝るのが怖かった。朝が来るのが本当に怖かった。

気絶でもよいから私はそうしてベッドで過ごした。私の10年前のような生活を、もしも自分もしているなと思って読んでいる人がいるとしたら、危険な状態であることは言うまでもない。ただ私は無責任に「じゃあ会社辞めちゃえばいいじゃん」「逃げちゃえばいいじゃん」というnoteにはしたくない。

なにが言いたいかと言うと、この「寝る」に私は今、色々な意味を込めている。

ぼうっとする
空を見上げる
ベッドに横になる

ざっとこんな感じだ。
別に何もできないで日々で終わっていい。私はとにかく焦っていた。会社に行く前や、仕事している時間。帰り道、休日。どこでもいいから寝てほしい。心を「無」に近づけ、そしてその「無」に怯えずにいたらいい。

そして、環境を変えることを、少しずつ考えていったらいいのではないだろうか。「会社を辞める」「逃げる」という言葉ではなく、"環境のお引っ越し" だ。



・・・



次に2番。「自分の世界だけで生きすぎない」

この地球には、多くの人が生きている。何も世界旅行に行って、自分を変えてきたら?なんて言わない。

私の趣味は、読書だった。
いや、趣味とは言えないか。ただそこに本があったから、最初は読んでいただけだと思う。

私がここまで来れたのも、「物語」のおかげだなと思う。



自分は駄目な人間だ。
自分は何もできない。

そう思うのも自由だ。
ただその自分の世界だけで生きていると疲れてしまう。

私は物語に飛び込んだ。誰かの文章を読んでいる時間は、ほかの「世界」に行くことができた。気休めではない。薬よりも効く方法であり、魔法だった。


本が、小説が、エッセイが今手元になくたっていい。
あなたが私の文章を読んでいるということは、noteを開けるはずだ。

私もnoteをつい最近始めて知ったが、本当に様々な人、様々な経験、様々な世界が見れる、読める、行ける。

たくさんの世界で生きよう。
たくさんの世界と"一緒に"生きよう。

私はそう思う。

何も根本的な解決にならなくとも、「10年」という言葉が解決してくれる。あの時私が言われた「10年」は、途方もない歳月の10年ではない。「焦らなくていいよ」の10年だったのだ。



・・・



そして最後、3番。
「苦しそうにしている人を素通りしない」

これは偽善と感じる人も多いかもしれない。
ただ題目にも記した、私の「ルール」として持っている。

私は本当に何度も救急車で運ばれてきた。
多くの人に助けられ、救われてきた。
病院の人、救急車で運んでくれた人、救急車を呼んでくれた人、私が道路でうずくまっていた時、そっと何も言わずに背中をさすってくれた人——


もう会えない。
会おうと思えば会えるのかもしれない。

ただ私は、私と全く同じ症状でなくても、街で見かけた、苦しそうにしている人に声をまずはかけるようにしている。

パニック発作を経験してから気づいた。

毎日、毎月でなくても、見かけることがあった。そして思う。


「ああ。この人は"私"かもしれない」


勝手な自己陶酔かもしれない。
余計なお世話かもしれない。

それでも私はあの時、助けてくれた人、背中をさすってくれた人に感謝しているから。だからまずは声をかけている。少しでも、少しでも、と思って。断られれば、身を引く心の準備はいつもしている——


・・・


「治るのに10年かかりますよ」

今思えば、あの日のお医者さんは、少し微笑んでいた気がする。背中をさすってくれていたのかもしれない。



あれから、10年経とうとしている。

私の何も根本的な解決にはならないnoteをここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

再三お伝えすると、私は専門家ではない。

ただ今、とんでもなく苦しくて、そんな中、たまたま私のこの文章を読んでくれた方がゆっくりでもいいから芽吹くことを願っています。

そしてnoteは、自分で書くだけでなく、"一緒に生きてくれる世界"だと私はnoteを始めたばかりながら、常々思っております。


詩旅つむぎ


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