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『「てんぷら近藤」主人のやさしく教える天ぷらのきほん』 近藤文夫

 昨年の秋頃、滋賀に観光に行ったとき大津プリンスホテルに宿泊した。琵琶湖の畔に建てられた地上38階建の建物から眺める景色や系列のホテルには幾度か宿泊していたこと。そして、朝飯付きて1人8千円。僕の目には魅力的に映ったわけだ。


 しかし、この大津プリンスホテルが不便な立地にあることは泊まってから気づいた。琵琶湖を眺めるロケーションは最高なのだが、周囲に食べるところがほとんど少ない。
 そのため、宿泊者はほぼ必然的にホテル内で食事をすることになる。ホテルといえばビュッフェだな。意気揚々と37階のビュッフェレストラン『ビオナ』へ向かったが、満席。2時間後なら空くとのことだったが、待てるわけもなく、諦めた。
 他に食事処はないか、と探したところ、36階に『和食 清水』があった。ふむ、宿泊者は1人4千円で天ぷらコースを食べられるようだ、この値段ならビュッフェより安く食えるではないか。
コスパがいい。程よく下がりつつあった天ぷらへのハードルを確認しつつ、店の敷居をまたいだ。

 『うまい天ぷらはこんなにうまいのか』
 
 僕は野菜の天ぷらを食べた瞬間、こう驚いた。馬鹿げた感想だが、事実そう思ったのだ。


 薄いながらもしっかりと存在感をもった衣が歯にカリッ、と心地よい食感を与えてくれる。うまい、うますぎる。もちろん油でベタつくことはない。僕は夢中になって天ぷらを食べた。
 僕が口にしたことのある大手資本チェーンの天ぷら屋、定食屋及びうどん屋のそれとは明らかに次元が違う。
 ミーハーで影響の受けやすい僕は、そこから好んで色んな天ぷらを食べるようになった。ただお金もあるわけじゃないため、月2回。ランチのみ。価格は1人3千円〜5千円と条件を付けてだが。

 そんな天ぷら好きなら一度は訪問を憧れ、その名を知らぬ者はいない、ミシュランは常連の店がある。
 
 中央区銀座5丁目「てんぷら近藤」




 日本の天ぷら界の頂点に立つ神様みたいな人が書いた料理本を紹介したい。

 近藤文夫は、高校卒業後、東京・神田駿河台「山の上ホテル」に入り、和食・天ぷら部門に配属された。23歳で「てんぷらと和食 山の上」の料理長に抜擢、以降21年間務めた。1991年に独立し、「てんぷら近藤」を開店した。薄ごろもで揚げる手法や野菜天ぷらなど、斬新な発想で独自の天ぷらを提案し続けている。
 最近では、MBS制作「情熱大陸」やBSフジ制作「パレ・ド・Z〜おいしさの未来〜」に出演したため、一般的にも知られているだろう。




 ただ、そんな名店が実は、不名誉な形で知られてもいるのだ。和食界の教育システムの非効率な例として槍玉に挙げられているのだ。
 

 


 
 この画像は様々なところで拡散され、「10年修行しないと客前で天ぷらを揚げられない」「見て覚える10年」という言葉がひとり歩きした。
 そういう中では、修行なんかいらない、専門学校で習えば良い、と言われてきた。


 ただ、ステーキけんの創業者である井戸実は、このように語っている。


 『確かに寿司アカデミーは握れるようになるんですけど、とは言っても日本の飲食店では働くことはできない。やっぱり技術的に「まだそれじゃぁ全然だよ」って感じのところで、卒業しちゃうんで』
 「【堀江貴文×井戸実】美味い寿司を握るのに、長い下積みなんていらない」


 井戸実はかつてロードサイドのハイエナと呼ばれ、その挑発的な発言でネガティブに語られることも多かった。一方で寿司屋の板前として4年も修行しており、和食界の教育システムは十二分に理解しているのだろう。だから、ヤリ手の飲食店経営者として、従業員教育にも携わってきた、彼の発言にはかなり説得力がある。


 『握るのは簡単なんです。仕込みが難しいんですよ、寿司は。…超絶ブラックで働かないといけないじゃないですか。それこそ1日18時間ぐらい働いて仕事を教わってたわけですよ』
「【堀江貴文×井戸実】美味い寿司を握るのに、長い下積みなんていらない」


 ただそんな井戸実ですら、専門学校のカリキュラムでは、足りないと言いつつも、店舗の教育システムにも非効率さがあることは認めている。


 『今30代のイケてる寿司屋とかはそれに気付いていて、若い子たちを厳しく折檻するんじゃなくて、もうお友達みたいな感じで、20代の修行してる子たちを扱ってる』「【堀江貴文×井戸実】美味い寿司を握るのに、長い下積みなんていらない」
 


 これは僕の推測ですが、井戸実的にいえば、効率的な教育システムを持った店舗で一生懸命働くってのがベストなのかな、と思う。
 
 そして、シンプルな技術の伝承という意味では、この本はかなり完成しているのではないだろうか。
 揚げ油の配合について、天ぷら衣の作り方について、また調理過程における各素材を揚げる温度、時間。1工程ごとに写真を取られ、事細かに語られている。これを読めばもちろんそのまま美味しい天ぷらが揚げられる。
 ただ、分かるのだ、これを読み、技術を極めたとしても「てんぷら近藤」に絶対になりえないのわ。もちろんここには載せていない秘匿されている技術があるだろう。いや、しかしそれすらも言語化してもなお、足りない。根本的に飛び越えれない溝があるのだ。
 それが10年という時間なのか。これを言い換えれば、「格」という曖昧に表現するのだろう。「格」を持ってこそ板に立てる。


 「てんぷら みかわ」の早乙女哲哉は修行について、こう語っている。


 『「あなたは、てんぷらの揚げ方を習いにきたんじゃなくて、我慢を習いにきているんだよ。我慢を覚えたならば、自然と仕事が覚えられるから」と話をします。1年、2年、3年と我慢して店で働いていれば、その分仕事は覚えているんです。 私がてんぷらを揚げているときに、調子よくパッと大根おろしを出したり、お客さんが帰るなと思ったらお茶やおしぼりを出したりすることが大事。そういうふうに私のリズムに合わせて下働きができることは、てんぷらを揚げるときのリズムが身についていること。全部仕事ができているのといっしょなんです。魚をさばくとか、てんぷらを揚げるとか、見える技術は、2、3カ月やればできるんだから。それまで、何年我慢できるかが勝負なんです。 はじめに必ず「我慢の修業をするために来ているんだよ」と言っておきます。そうやって伝えておくと、けっこう、我慢して働きますよ』
「江戸前の流儀」 小松正之監修


 和食の板前としてカウンターに立つということ、「格」を手に入れるとは、きっとこういうことなのだろう。
 料理人としてのみならず、経営者として、仕入担当として、接客担当として、営業マンとして、雑務係として全ての仕事を一人前にこなせる能力があるということなんじゃないか、と思う。
 つまりスペシャリストの養成ではなくゼネラリストの養成。これによって「格」が始まる。
 技術は言語化されている。専門学校で学ぶことも可能である。
 しかし、その総体である「格」が言語化されているかは疑問である。
 では、10年という時間が「格」を手に入れる適切かどうか。
 残念ながらこれについては言語化がなされていない以上、僕に語ることはできない。

 
 『語りえぬものについては沈黙せねばならない』
 
 ヴィトゲンシュタインの名言を頭に浮かべながら、天ぷらを今夜も食べるのである。
 


 
 【参考文献】 
 
「【堀江貴文×井戸実】美味い寿司を握るのに、長い下積みなんていらない」
https://www-mag2-com.cdn.ampproject.org/v/s/www.mag2.com/p/news/360276/amp?amp_js_v=a3&amp_gsa=1&usqp=mq331AQFKAGwASA%3D#aoh=15982577682687&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&amp_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Fwww.mag2.com%2Fp%2Fnews%2F360276


「江戸前の流儀」 小松正之監修


 

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