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生物は禅をすることができるか?

4月になってから、「仏教」「禅」「東洋思想」を基礎から勉強している。特に、密教、鈴木大拙、井筒俊彦を学んでいる。以下がここ一週間で読んだ関連書籍だ。

・鈴木大拙『禅と日本文化』
・鈴木大拙『日本的霊性』
・末木文美士『日本仏教史 -思想史としてのアプローチ-』
・枡野俊明『禅と禅芸術としての庭』
・長谷川公茂『円空 微笑みの謎』
・岡本健『ゾンビ学』
・井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を求めて』
・秋山昌海『仏像装飾持物大辞典』
・秋山昌海『仏像印相大辞典』

これらの書籍を読んで自分の作家性についてハッとさせられたことがあるので、一度まとめておこうと思う。結論とすれば当分のテーマは「生物は禅をすることができるか?」である。これを解説するにはまず禅についてまとめなければならない。

禅とは?

禅をテキストで説明するのは至難の技である。これは禅が体験を重要視することに起因する。その点、大拙の『禅と日本文化』は禅を非常によくまとめてくれている。彼のテキストを参考に禅をまとめてみようと思う。

禅の教義は大乗仏教の一般的教義と同様だが、特にブッダの根本精神への回帰を目指し、文化的な加工や蓄積された見解(皮相な見解)を取り除くことを重視する。禅は般若(超越的智慧)と大悲(深い憐れみと愛)を中心に据え、これらを通じて人間が現象を超えた真実を見る力を養う。また、禅は言語や論理に依存することを避け、直観と実体験を通じて深い理解を促進することを教えている。知識には三つの形態があるが、禅は直観的な理解を重んじ、これを日常生活や緊急時の対応に有効なものと見なしている。禅の教育は、非言語的な価値と本質的な理解を重視し、人々が自己の真の性質と直接的に接触することを目指している。

自身のブログをChatGPTに要約させたものであるが、当たらずとも遠からずと言う印象だ。禅についてあまり伝わった気がしないので、少し補足しておこうと思う。

我々は世界を事物が分節された状態で見ている。(りんご)と(みかん)といった具合にだ。これは我々が論理と言葉などの知的作用によって利己的な欲で世界を見ているからだ。しかし、禅には我々に分節されていないありのままの世界を見ることを可能にする。「無我の境地」と言うように、”我”をも意識しない没入状態に禅は導いてくれる。禅の目指す状態では主客が解体される。”我が無い境地”だからだ。禅の思想は日本文化芸術にも根付いている。弓道などでは自分を主格とし、的を客体としてこれらを意識しない精神状態を目指す。このように禅は坐禅を意味するのではない。日常生活全てにおいて禅的意識を実践すること(実践するとも意識しないこと)によって完成に至る。ある意味で自分を蔑ろにする思想なのだ。

禅によって目指す事事無礙について知りたい方は、井筒のテキストを解説した記事も載せているのでぜひ読んでいただきたい。

生物は禅をすることができるか?

禅の前提知識を解説してようやく自分のテーマを解説できる。まず私の作品<蟲筆>を見ていただきたい。

これは、私がゴキブリの移動方向を電気刺激で制御することで般若心経を描くという作品である。文字を書くとき、私は禅に似た没入体験を感じた。ゴキブリの一挙手一投足に対応して私の手は素早く反応する。まるでゴキブリの意識が私の意識に侵食されているような感覚だった。これは逆の立場でも同じである。ゴキブリはある程度自由に動くが私の制御によって移動を制限される。私の意識がゴキブリの意識を侵食していくのだ。コンピュータというフィールド(架け橋)によってこのような体験ができたわけであが、このフィールドにおいて私とゴキブリの間に主客は存在しない。ということは、ゴキブリも禅のような体験をしているのではないか?

少し違う角度から考えてみようと思う。井筒俊彦は『言葉と意識』の中で、禅という体験によって、人間の認識が言語の縛りから解放されると解いた。禅は構築された言語による分節世界を解体することを目的とするわけであり、我々に分節世界と無分節世界の両方を認識させることを、到達点の一つにおく。ゴキブリは言語を用いないゆえ、コトバによる分節世界を認識することはできないが、環世界の思想のように特定の認知体系に縛られていることは考えられる。彼らだけでは高度な概念を認識することはできないが、コンピュータによって禅を行える可能性はあるかもしれない。基本的に仏になることができるのは人間だけだと考えられているが、一切衆生悉有仏性というように命あるもの全てに仏性が宿っていると『涅槃経』では説かれている。

さらに別の角度から考えてみたいと思う。禅は自我の解体を行うことを目的にする。一方でサイボーグゴキブリは、コンピュータという第3の神経系を接続された状態であり、彼らの我を解体していくようと捉えルコとはできないだろうか?これは、コンピュータ技術が発達し、ゴキブリをコンピュータ制御する研究が応用的(アプリケーション)研究の段階になったからこそ可能になったのだ。

このように考えると生物が禅をすることも可能なように思えないだろうか?彼らの知覚で意味分節された世界が、コンピュータによって拡張され無分節世界になっていく。

なぜ生物が禅をする必要があるのか?

ここまで読まれた方は、ではなぜ生物が禅によって悟る必要があるのか?それは人間のエゴでは無いのか?というふうに思われるかもしれない。そのため、この点に関して私の立場を明確にしておく必要があるだろう。まず、生物が宗教を持たないという観点から書いていく。宗教は「死への恐怖を克服するために作られたシステム」としての側面がある。昆虫に宗教のようなシステムが存在しない以上、少なくともゴキブリには人間と異なった死生観が存在するのだろう。であれば、人間であっても宗派が分かれるゆえに、なおさら生物が仏教観に従う道理はない。ここで強く主張したいのは、私は「ゴキブリを成仏させてあげよう」という痴がましい思想は持たないということだ。つまり、彼らに仏教の思想を押し付けようと思わない。さらにはある意味で彼らをどこまでも道具としてみている。このように言えば「やはりゴキブリを奴隷としているじゃないか」と指摘されるだろう。しかし、そうでもない。逆にどこまでも対等な扱いをしている。

長々と書いてしまったので結論から言おう。私は彼らと禅を行うことによって対話を行うことができるのではないか?と考える。そして私(人間)の認知が少しでも拡張されるのではないか?とも思う。禅は無分節によって自分=万物とすることであるが、自らの存在を掘り下げてゆき、自分自身の中に絶対なるものを見出し、自覚することを目的にもする。そのような意味で、分節世界と無分節世界を同時に見ることでもある。自分を解体してしまえば、何も認知することができなくなり錯乱状態に落ちいてしまうが、両方を同時に見ることによって自分を保つのだ。そのような意味ではどこまでも自分に正直な思想である。これはゴキブリにも当てはまる。コンピュータによって構築された禅的フィールドによって私とゴキブリは混じり合い、直観的にゴキブリを感じることができる。これは言語や論理を持たない生物との対話手段なのではないか?
つらつらと高尚なことを書いたがもっと根本的な欲求にも起因する。そもそも言語を持たないゴキブリが般若心経を書くこと自体が謎すぎる。彼らは言語を持たないし仏教も信じていない。なのに、ピクミンが頑張ってる姿見ると可愛いって思ってしまう。ピクミンを奴隷のように扱うが、その姿は愛おしいのだ。彼らを愛でたいと思う感情は私のエゴなのであろうが、それをやめられないのは芸術家としては良いことなのかもしれない。自分にしかない探究心の種になるからである。


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