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『「理事無礙」から「事事無礙」へ』を通じて事事無礙を学ぶ

こんにちは。
今日は「事事無礙」についての勉強記事を書いていきます。

研究室の指導教員がよく使っているワードなので、耳に馴染んだ言葉ではあったのですが、食わず嫌いをして勉強してきませんでした。しかし、現在作っている作品の文脈上井筒俊彦を勉強しており、彼のテキスト『「理事無礙」から「事事無礙」へ』で「事事無礙」が細かく説明されていたので、重い腰をあげブログにしようと思った次第です。

本テキストは「事事無礙」とはなんたるかを構造的に説明した後、イスラム教を華厳哲学的に読み解き「理事無礙」の構造に迫っています。正直後半の説明は、まだほとんど飲み込めていません。

まだ勉強は必要なのは承知の上で、今回の記事では本テキストの前半から「事事無礙」を理解し「構造を端的に説明できる地点」をゴールに書いてみたいと思います。

第0章:事事無礙の面白さ

「事事無礙」とは華厳哲学の持つ世界観のようなものです。「事」と「事」が「無礙」である、言い換えれば「物と物との境界がない、とらわれることなく自由であること」ともいえます。こう言い切ってしまえば、「物と物とを区別せずに世界を認識すればいいんでしょ!簡単じゃん!!」となってしまうのですが、そう簡単に進む話ではありません。さらに、「事事無礙」を成り立たせている構造も一切理解できていません。「事事無礙」を勉強する面白さはこの構造の独自性にあると言っても過言ではないと思います。

では、井筒俊彦のテキストに沿って「事事無礙」の構造を学んでいきます。

第1章:凡夫の見る世界

「事事無礙」の世界を理解するためには、現在我々のような凡夫が世界をどのように認識しているか知らねばなりません。本テキストにわかりやすい一文があるので見てみましょう。

日常的経験の世界に存在する事物の顕著な特徴は、それらの各々が、それぞれ己れの分限を固く守って自立し、他と混同されることを拒む、つまり己れの存在それ自体によって他を否定する

p 24

華厳哲学的な言い方をすれば、事物は互いに妨げあっているといえます。りんごにはりんごの本性がり、みかんにはみかん独特の性格があります。りんごとみかんははっきり区別されており混同はあり得ない、ということです。事物が互いのからの中にこもっている、溶け合っていないと言っても伝わりやすいですね。

先に言ったように、我々の経験する世界では、事物の間には明確な境界が存在しています。そして、この境界よって事物には独自の「名」を帯びている。逆に「名」によって境界があるように感じているのかもしれません。

荘子は、この事物を分別する境界を「封」とか「畛」と呼んでいます。そして、この境界によって互いに区別されたものを「事」と言います。本来では、「事事無礙」「理事無礙」と話が進むにつれて、「事」の定義も込み入ったものになっていくのですが、一旦深く踏み込まずこの定義のまま進めていきます。

本テキストでは別の言い方もされているのでそちらを引用して先に進みましょう。

常識的人間が無反省的に見ているままの事物、千差万別の存在の様相、それが「事」という術語の意味である、とお考えおき願いたいと思います。

p 28

「事事無礙」のためには第一段階として、この境界 --- 畛 --- を取り外してものを見る必要があります。森羅万象千差万別の世界から境界が消えた時、無差別性の空間に転成します。この境界がない(境界が真に覚知された)ことを華厳哲学では「理」や「空」と言います。

しかし「やった!境界がなくなった!!!終わり!!!」ではないのです。先に第一段階と言いましたのも、そこからさらに第二段階があるからであり、ここが東洋哲学の重要な点であると井筒俊彦はいいます。

しかし、それよりもっと大事なことは、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、そのままそこに座り込んでしまわずに、また元の差別の世界に戻ってくるということであります。

p 26

境界を取り払って満足せずに、再び境界を見る、それも交互に見ることによってではなく二重の視点で同時に見ることによって事物の真相が露わになってくる、と東洋哲学では考えるのです。

長くなったので、現段階までの理解を一旦まとめましょう。

凡夫の見る世界・・・事物は互いに妨げあって境界がある
畛・・・事物を分別する境界のこと
事・・・境界によって互いに区別されたもの
空・理・・・境界がない(境界が真に覚知された)こと

凡夫の見る世界とは、畛によって事が無限に存在する世界であり、畛を取り払うことによって、空や理にいたります。しかし、この畛が世界では満足せず再び、畛のある世界を覚知して、二重の視点で世界を見る。

第2章:「空化」別の側面から

この章では、前章の「畛という境界をはずす」という側面から、「事事無礙」について迫ってみました。この章では、この側面を裏返した「存在の『空』化」という側面からお話ししたいと思います。

前章でも触れたように「空」とは境界がないことを指します。つまり、「畛という境界をはずす」とは見方を変えれば「空を導入する」、「空化する」とも言い換えられます。なぜ井筒俊彦が「畛」という概念を用いて進めていた議論を「空」という裏っかえした議論に言い換え直しているかは、端的に大乗仏教で重要な概念である「空」に触れるべきであるからなのでしょうが、「畛」という「事」の関係性の側面では語れない「事」の自立性の側面からも議論を行いたかったからでしょう。

「空」の側面から捉えると、「事」的存在世界とは無数のものが他から独立し自立している分別の世界といえます。このリンゴをリンゴたらしめ、みかんをみかんたらしめている自立性を仏教用語では「自性」と言います。

「空」の導入によって「自性」が崩壊する。一切は、本来、空なりと観ず。この崩壊を仏教では「一切皆空」というわけです。言い換えれば「すべてのものが『無自性』である」という考え方です。

この「空化」が仏教的存在解体の一応の終点であると、井筒俊彦はいいます。そして、この終点のあとに華厳哲学の独自性「事事無礙」や「理事無礙」と言った話が始まるのです。

本来、本テキストではこの後、認識主体の観点から意識の「空」化と存在「空」化を議論しているのですが、次の章では深く触れずに終点の後の「事事無礙」に主眼を置いて解説していきます。気になるかたは本テキストを実際に読んでみてください。

第3章:裏返る「空」、そして「理」へ

さて、いよいよ本記事の目的でもあり、華厳哲学の本領でもある終点の後に触れていきます。第1章で触れたように、境界がある世界とない世界を同時に二重の目で見るのですが、これを「空」の側面から言い表すと次のようになります。

「空」の立場から「不空」を見る、「無」を見てきた目で、そのまま「有」を見る、「無」と「有」とを二重写しで見るという、あの二重の「見」がここに現成するのです。

p 43

我々は片目でしかものを見ていない、東洋の哲人は「複眼」で世界を見ている、華厳哲学は「複眼の士」の見る存在ヴィジョンの存在論であるとも井筒俊彦は言います。

この見地から、再び「空」を見ていきます。仏教の「空」の構想では、「無一物」といって絶対的「無」(真空)であるからこそ無限に「有」(妙有)になる可能性を秘めている、という考えが出てきます。「空」は相反する二つの側面を持つのですが、華厳哲学では特に後者の「妙有」的側面に重きをおきます。「有」に重きを置くと言っても「空」化された後の、言い換えれば一周まわった後の存在肯定に重きを置いており一周回る前の存在肯定とは根本的に異なる点は留意しておいてください。

意味的虚構としての「自性」を取り去られ、実体性を奪われた事物が新しい秩序を構成するか、それが華厳的存在論のテーマなのです。

p 45

「空」の導入により存在「無」化が行われますが、華厳哲学では存在「無」化の終点で「空」が限りない存在エネルギーの本源として働き出すと考えます。存在否定の「空」が裏返り存在肯定となる、この裏返った「空」を「理」と言います。ようやく、第1章でやんわりと説明していた「空」「理」の本質を説明できましたが、さらに付け加えて説明させてください。

無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的創造力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。無分節の存在エネルギーが自己分節することにとって成立するそれらの現象的形態の一つ一つが、それぞれもの(「事」)として我々の目に映るのです。

p 48

裏返った「空」である「理」は、宇宙そのものとも言える無限の存在エネルギーを自己分節していきます。それが分節された「事」として我々の目に写っているのです。なぜ「理」がこのような無限性をもつのか?と疑問に思う方もいるでしょう。その無限性をもつ構造の説明が、井筒俊彦の面白さです。長かったですが、ようやく面白い部分に入っていきますので、最後まで読んでくださると幸いです。

第4章:理事無礙

とはいったものの、「事事無礙」の構造を説明する前に「理事無礙」について説明しなければなりません。「理事無礙」とは「理」と「事」の関係性、つまり「理」がどのように自己分節し「事」として我々の目に映るかを説明したものになっています。この説明をなしに、「事」と「事」の関係性を説明している「事事無礙」を理解することはできません。

無限性をもつ「理」が自己分節をするというと、無数に分裂してバラバラになってしまう印象を受けますが、そうではありません。分節や分別というのはあくまで我々がしている虚構の区別であり、「理」自体は何ら分節していないと華厳哲学では考えます。

そして、この無分節である「理」が一つのものである「事」として自己分節的に現象してくる、これを華厳では「性起」と言います。

「性起」を理解する上で重要なのは、「理」全体が「事」的に顕現するということです。「事」には「理」全体が含まれている、と主従を逆転させた方が伝わりやすいかもしれません。

だから、およそ我々の経験世界にあるといわれる一切の事物、そのひとつひとつが、「理」をそっくりそのまま体現している、ということになります。

p 50

たとえ、一つのリンゴでも鼻くそであっても「理」の存在エネルギーが全て突っ込まれていると考えるわけです。「理」は全てを「事」に投入し、逆に「事」は「理」を体現している。これで「理」と「事」の関係、つまり「理事無礙」を説明したことになります。

ここまで、(事)→(理)→(理事無礙)と説明してきて、ようやく「時事無礙」を説明できます。

第5章:事事無礙

ここまでいろいろ説明してきましたが、端的に言ってしまえば、「事」の否定から出発し、「空」に至り、二次的な「事」の復活に至る、これが「事事無礙」までの大まかな流れです。

しかし、第3章までで「空」化によって事物の「自性」は解体されました。境界がなくなり一つの「理」になってしまった事物が、はたしてなぜもう一度「事」的な振る舞いを始めるのでしょうか?「自性」がなくても事物の間に区別がある「事事無礙」の構造とは何でしょうか?

さあ、いよいよ大詰め、事事無礙の持つ構造の独自性に迫っていきます。では先に結論を言います。事事無礙の持つ独自な構造とは「相互関連性」です。

すべてのものが無「自性」で、それら相互の間には「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は、相互関連性でしかあり得ない。

p 57

相互関連性と言っても、リンゴとみかんの関係のような個物間の関係ではありません。全てと全てが関連し合う、全体的連性の網があり、その構造の中で初めてリンゴがリンゴであり、みかんがみかんたり得るのです。

p 58

本テキストに登場する図がわかりやすいので見てみましょう。この図はかなり簡略化されていますが、AやKなどは文字通り実体を持たない「空」であり、自分のみでは成立できない「無自性」な存在です。「事」が相互関連性の中で存在していると考えれば、必然的に「理」も内包しています。

さらに、この図は共時的な構造ではなく、通時的な構造であるのもチェックポイントです。一瞬一瞬に違う形が現成するのです。華厳経では『一一微塵中、見一切法界』と書かれています。特定のものが個的に現れることはありません。常にすべてのものが、同時に、全体的に現れるのです。これをげごん哲学では「縁起」といいます。

「理事無礙」と「事事無礙」は表裏一体です。世界を「性起」という奥からの視点で見ると「理事無礙」として、「縁起」という表の視点から見ると「事事無礙」として捉えられます。

最後に

本テキストでは、この後より華厳的な解釈がされていたり記号論的に捉え直したりもしていますが、本記事の目的である「事事無礙」を理解し「構造を端的に説明できる地点」までは到達できたので触れないでおきます。興味ある人はぜひ読んでみてください。
ではまた


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