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鈴木大拙からまなぶ「禅」

禅の教養は大乗仏教の一般教義と変わらない。ただし、禅の目的は、インド・中央アジア・中国においても、発展に伴って累積したすべての見解を除去して、ブッダ自身の根本精神と教えようとすることにある。発展に伴って累積したすべての見解は「皮相な見解」とも言われるが、これは民族真理の特殊性に基づくものである。大拙は『日本的霊性』の中で**「霊性とは、精神の奥に潜在しているはたらき」**と述べている。鎌倉時代に親鸞によって浄土真宗が作られることによって、元から備わっていた”日本的”霊性が表象したと述べている。禅では浄土真宗などの表象させた教義などを取り除き、ブッダの霊性(語弊のある言い方に思えるが)を体験するものであるとも言える。

ではブッダの精神とはなんであるのか?それは「般若」と「大悲」である。

  • 般若:超越的智慧。般若によって人は事物の現象的表現を超えて実在を見得できる。そひて個人的な利益や苦痛に思い悩まなくなる。

  • 大悲:愛・憐情。般若によって個人的な利益や苦痛を思い煩うことがなくなった時、大悲が自在に作用する。「愛」が利己的な妨げを受けずに万物に及ぶことができる。

**禅とは利己的な欲(無明/業)で隠れてしまっている般若を目覚めさせようとする。**無明/業は知的作用に屈服してしまうことから起こる。知的作用を引き起こすのは論理と言葉であるゆえ、禅では論理を蔑視する。知識の価値とは物事の真髄が把握しできて初めて知ることができる。言い換えれば、禅が我々の般若を目覚ますときに認知を逆にした方法で精神を鍛えるということである。
大拙は禅を直観的に理解させるために、次の夜盗の説話を例にする。
あるところに父親が夜盗を行なっている家族がいた。息子は父親の家業を助けようと仕事の教えをこう。父親は承諾し息子を屋敷に忍ばせるが、同時に大声で夜盗が入ったことを家主に知らせる。息子なあの手この手を使って屋敷から逃げ出し、父に文句を言う。だが父親は一言 「まあ、憤るな、何うして逃げてきたか一寸話してみろ。」 息子が一部始終を話した後、父親はこういった。 「それだ。お前は夜盗術の極意を覚えこんだ。」
これは禅の師と弟子の関係にそのまま落とし込める。身をもって体験し知的作用や体系的な学説にうったえぬことが禅の真髄である。我々が日常的に行う理論化は工場を建てるときや製品を製造するときには役に立つかもしれないが、人間の魂の直接の表現である芸術品を作ったり、技術に熟達したり、生きる術を得たりするときにはうまくいかない。それゆえ、**禅のモットーは「言葉に頼るな」**である。
また、禅において言葉は貨幣にも例えることができる。寒さを防ぐために貨幣を切るわけにはいかない。コトバは『意識と本質』にて井筒俊彦が言及している。コトバによって事物は備わっていたものが削ぎ落とされ本質があるように感じられる。この例えが言葉がいかにノンバーバルなものの価値を置き去りにしているかを表しているのだ。
さらに大拙は知識には三種あるとする。

  1. 読んだり聞いたりして得るもの:記憶して重要な所有物として持っているもので知識の大部分はこの種のものである。我々は世界をくまなく歩き回って調査するわけにはいかない。故にほとんどの知識は他人がくれるものに頼っている。

  2. 科学的なもの:観察と実験と分析と推理の結果である。1よりは強固な基礎を持っている。ある程度、体験的で経験的であるからだろう。

  3. 直観的な理解の方法によって達せられるもの:科学を重んじる人からすれば直観的な知識は事実に確実な基礎を持たないから、絶対的な信頼は置けないという。しかし、科学的知識も完璧ではなく限界性を有するものであるから、緊急時には科学と論理は貯めておいた知識と計較を利用する隙がない。一方、直観的知識はあらゆる種類の信仰の基礎を形成しており、もっとの効率的に危機に対応することができる。

禅が呼び覚まそうとするのは第三の形態の知識である。これは我々の存在の深い虚から出てくるものだという。

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