見出し画像

「ひとつ」だけ多くても足りなくても

「悪いことが何度も続いただけ」だと、いつの時もそうやって笑い飛ばせる人間でありたいと思うようになった。



高校生の頃、CHAGE and ASKAの「ロケットの樹の下で」という曲を初めて耳にした時、歌詞に出てくるような大樹の下で、たった独り突っ立っている自分をなぜか想像していた。


それから10年以上の歳月が流れ、ふとしたことで気の迷いが生じた時、唐突に思い出してしまうのだ。今の自分の立ち位置は、そんな空想と似たような場所で、立ち直るアテが見つからないまま途方に暮れているのかもしれない。

辺りはその大樹以外、他に目印になりそうなオブジェすら無く、すっかり寂れた景色をつくっている。そして、視界から奥に映り込む景色が思わず見惚れるほど美しく、かつそこに住んでいる人たちが心の底から羨ましいと思うのだ。

同時に、自分がそこにたどり着くことは、未来永劫叶わないとさげすんでしまっている。どれだけ賢明になって人一倍、それ以上に。隣の人と肩を並べて一斉に歩き出すための努力をしようが、結局何一つできやしないと。


考えすぎだろうか。


自分が10代だった頃を振り返れば、周りの同年代と比べて孤独でいる時間を、日々を、かなり多く過ごしてきたと思っている。

人と同じことを多くこなすことができなかった、あるいは人一倍コミュニケーションを取ろうとしなかった自分を、俯瞰ふかんの視点から覗いてみれば、たった一つの黒いシミみたいなものとして、別の意味で目立って見えていることだろう。

自分で云うのも難だが、元から交友関係の少ない方だ。ただでさえ、自分のスマホの電話アドレス帳に登録されている件数なんて、たかが知れるような量でしかない。

ましてや今となっては「心から分かり合える人間」に括って絞り込めば、もはや片手で指折り数えても余るほどになってしまった。 

唯一の支えだった指に力が突然入らなくなった結果、崖からとうとう落ちてしまった。そんな感覚に今現在も、湿りきった部屋の中で静かに浸っている。 


笑うべきなのだろうか。


あの頃、移動する先々でイヤホン越しに聴きながら想像していたことが、今更になって正夢になってしまっていると。将来の夢を叶えるでもなければ、大事な人と幸せになるでもなく、まして誰か一人でも幸福をもたらすでもない。

これが、かつての自分が望んでいた理想だったのだろうか。自分の選んだ道は、はたしてこれであっていたのだろうか。自分の生き方は、生き様は、これで間違っていないだろうか。

時間が経つのが徐々に早くなってきているのを目で追いながら、自問自答する日々に身を置いている。さまざまな出会いと別れを繰り返し、こうして再び独りになってしまった今、次はどんな良からぬ出来事が待ち構えているのだろう


けれど、確かに云えるのは、一つだけ多くても、一つだけ足りなくても、今この場で自分の目先に見えているのが、今の私のすべてであり、人生の終着点ではないのだと。

こんなところで終わるもんじゃない、今日も立ち直るきっかけを手探りしながら、自分にそう言い聞かせている。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!