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スルーする力

昨今「スルー力」ということばが頻聞されますが、それは比較的最近のことではないかと思います。この「スルー力」というのは、パラフレーズすれば「受け流す力」「無視する力」ですよね。そして、スルーする対象は他者からの批判だったり、悪口だったりというのが主なものでしょう。これは多くの人がそれだけ他人のことばに傷ついているということでもあって、〈ことば〉〈言語〉を日々専門的に考えている者としては、思うところがいろいろありますが、結局、これは「他者からどう見られるか」とか「人に好かれたい」とか「悪く思われたくない」とか、そういった心理と関わっていると思うんですね。ですので、最も簡単な方法は、「別に万人に好かれる必要はない」ということを悟ることですが、私自身も含めて、それがなかなか難しいわけです。しかし、万人に好かれることは非現実的であって、「自分が好きな人たちにだけ受け入れてもらえばいい」というふうに割り切ってしまうことが大事じゃないかなと素朴に思います。

脳科学や心理学の人であれば、「ミラーニューロン」とか「感染理論」とかといったワーディングで語るかもしれませんが、私たちは周りの人から、よくもわるくも影響を受ける「環境依存的」な存在ですので、むしろ攻撃的な人や易怒性の高い人とは距離をとるべきです。つまり、スルーしたくなるようなことばに逢着したら、その人の本性が垣間見えたことに感謝して、それを機にあえて疎遠にするというのも、「生き延びていくため」のストラテジーかもしれません。

「ホモフィリーの法則」や「同質性の法則」などと呼ばれるソーシャルネットワークの術語もありますが、これは「類は友をよぶ」ということで、自分自身を高めて律することが、攻撃的な人間を遠ざけ、温厚で人間的に成熟した人たちに囲まれて暮らすためのひとつの方法だと思います。もちろん、「批判」にもいろいろあって、例えば、建設的な批判はそれが至当なものである限り、受け入れるべきだと思いますし、一方で、明らかにそうでない悪意に満ちた批判は「嫉妬」に起因していると私は判じることで放擲することにしています。認知的不協和理論でよく知られる、レオン・フェスティンガーというアメリカの心理学者は「人間は他人と比較してしまう生き物である」というようなことを言っていますが、嫉妬の感情が生じるのはごく自然なことで、他人と自分を比較して不満や欠乏の気持ちを抱くことを、社会学では「相対的剥奪」と言います。もともとはマートンという社会学者の用語です。誰を準拠集団にするか(誰と比べるか)によって、この不満や欠乏感は変わってきます。つまり、自分と同じような人が自分よりも高く評価されていたり、厚遇されていたりすると、嫉妬の感情が生まれるわけですが、自分と全く別世界の人に対してはそういう気持ちは芽生えにくいんですね。ですので、「出過ぎた杭は打たれない」と言われたりもしますが、中途半端ではなくて、圧倒的な存在になれば、スルーしたくなるような批判は受けにくくなるのではないかと理論上は考えられます。それが本当に奏功するのかはよくわかりませんが、ただ、実力をつけて強い自信を持つということは、スルーする力を高めるにも大切で、医療社会学者のアーロン・アントノフスキーという、健康生成論(salutogenesis)の研究者がSOC(首尾一貫感覚)という概念を提唱していて、これはメンタルヘルスにおいてとても重要だと言われているものです。SOCとは、把握可能感、処理可能感、有意味感の3つからなるのですが、これらをしっかりと感じていると、ストレスに強くなると言われているんですね。把握可能感は「自分の置かれている状況を一貫性のあるものとして理解し、説明や予測が可能であると見なす感覚のこと」、処理可能感は「困難な状況に陥っても、それを解決し、先に進める能力が自分には備わっているという感覚のこと」、有意味感というのは「いま行っていることが、自分の人生にとって意味のあることであり、時間や労力など、一定の犠牲を払うに値するという感覚のこと」です。こういう感覚を持ち得れば、心理的にも安定し、自信がついて、スルー力も高まるんじゃないかと思います。

ここまでやや小難しい話をしてきましたが、よくよく考えてみると、私たちは日ごろ、そこまで深く物を考えてしゃべっていないですよね。にもかかわらず、というか、深く考えてしゃべっていないがゆえに、何気ない一言が相手を傷つけてしまったりするところがことばの恐ろしいところで、これについては以前「お守りのことば」と「呪いのことば」というテーマで語ったこともありましたが、この「人間は日常生活でそこまで深く物を考えてしゃべっていない」ということ、そして「そのことばに対して、本人は絶対に責任をとってくれない」ということに気づいて、それを常に意識することが、結局はスルー力を高めることに繋がっていくのかもしれません。

*本稿はVoicy「生き延びるためのことばたち」(辻野裕紀)の「第5回:スルーする力」(2023年7月17日放送)を文字化、整理したものです。

スルーする力 | 辻野裕紀@言語研究者「生き延びるためのことばたち」/ Voicy - 音声プラットフォーム


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