見出し画像

読書の気分




読書の気分ってまちまちだなあって思う。エッセイを読みたい時もあれば、知識欲に任せて新書を読みたくなる時もある。かと思えば小説に行ってみたり。

本を開いてみなければ、その本がいま読めるか? がわからない。一度開いてみて、「あ、今日はエッセイじゃないな」「小説じゃないな」という時もある。


小説は意外と体力を使う。感情や思考が物語によってあちこちに運ばれて忙しい。椅子にじっと座って読んでいるはずなのに、心は忙しなく動いている。

私にとって小説はインプットというよりもアウトプット。自分の経験していない経験を、物語が擬似体験させて、私の感情を動かす。だから小説は入ってくるよりも出ていくものの方が多い。

日々で感情が揺さぶられすぎてる場合は、小説が読めない。正確には読めてるんだけど、入り込めない。入り込んだら感情を持っていかれるから、疲れてしまう。小説を読めないときは、日々が忙しいんだなと思う。


エッセイや日記が好きだ。自分と同じ種類のはずの他の「人間」が何を考えているのか、何を思うのか。それを知ることがるできるから。

でも、それも自分に余裕がある時に限るなーと思う。エッセイや日記は、すなわち自分ごとであることが多いので、こちらが聞く余裕がなければ正しく聞けない。そんな時にエッセイを読むと、見たことがある映画や漫画の話題や新しい知見が出てくるところばかり反応してしまう。

そんな風にエッセイや日記を読むのは寂しい。エッセイを読めないときは、余裕がないんだなと思う。


新書や一般書を読むのも好きだ。とにかく新しい知識を得るのが好き。知識は新しいメガネだと思う。巨人の肩ほど高いところには登れてはいないけれど、知識は私の視力で見える範囲の見方を少し変えてくれる。気付かなかったことに気づかせてくれる。

でも、頭の中が悩みや別の事柄でウヨウヨとしていると、知識はむしろ弊害になる。もう入らないおもちゃ箱に、どんどんおもちゃを詰めて行ってるような感じ。

もしくは、もう割れそうな風船に空気をさらに入れるような。そんなときに新書を読んでも「これ以上は入場お断りです」と跳ね返してしまう。新書を読めないときは、頭がモヤモヤしているんだなと思う。


最近「万能だな」と思うのは歌集や詩集、そして再読する本たちである。短歌や詩は、ひとつひとつが短くて、スルスル入ってくる。ふーん、とか、わーとか言って読んでる。

再読は今までしたことがなかったけれど、一度読んでいるから内容をはしょれるのと、好きな文章を読み直すだけで癒し効果がある。

常に村上春樹を持ち歩いて再読する、という方がいるのだけれど、なんとなくわかるようになってきた気がする。内容よりも文章に癒されているような。


読書するとき、本のジャンルは自分の気分をうつすかもしれない。でも、疲れていてただ読めないときももちろんある。そんな時、もっとも大事のは、本にとらわれず、目をそっと閉じることである。

この記事が参加している募集

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?