鳥たちのさがしもの 21
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-孔雀のさがしもの・失われた時間-
最後の夏の大会も終わり、そろそろ勉強に本腰を入れなければならないことは分かっていたが、孔雀を容赦ない睡魔が襲う。
午後の数学の授業。謎の外来種の記号が黒板で蠢いている。きっとあれが教室に眠気をばらまいているに違いない。
どうでもいいような妄想をしていたら、ふとプールサイドの猫が目に入った。生い茂る緑の合間をちらちらと獲物を物色して動いている。
思わず、ノートを閉じて午睡をしようと思っていた手が止まった。
駄目だ。ここで眠るわけにはいかない。
スポーツ推薦を断って受験するのだというと、両親も教師も仲間たちも皆驚いた顔をした。
孔雀は一年生の夏の大会でサブメンバーとしてベンチに入れてもらって以来、レギュラーの座を逃したことが無かった。公立校のわりに結構な強豪校であるこの学校において一年生でレギュラーに選ばれるのは異例のことだった。
一緒にバスケ部に入った同級生たちは騒いだが、孔雀にとってはそう驚くことではなかった。お前たちとは練習量が違う。そう思った。
実際、事故で失ったという曖昧な記憶を抱えて中学校に入った孔雀には、寄りかかるものがバスケしかなかったのだ。何かに憑かれたように時間があればボールを手にしていた。バスケットゴールに向かい合っている時だけ、ほんの少しだけ、失われた記憶が近づいてくる感触を感じることがあった。それはいつもあと少しの所で届かず、孔雀は舌打ちをすることになるのだが、向き合うことをやめられなかった。
しかしだから、周りが思っているように孔雀はアスリートを目指しているわけではなく、ただ単にバスケを通してひたすら自分と向き合っていただけだった。
勿論バスケは嫌いではない。高校生になっても続けるつもりだった。ただ、無理やりバスケ漬けになるであろうスポーツ推薦を受ける気はさらさらなく普通に受験がしたかった。
第一志望は都内の私立校を選んだ。ずっと気になっていた学校だ。特にバスケが強い学校でもないので理由を訊かれるが孔雀自身もよく分からない。ただの直感だった。
「ここ、体育館に冷房がついてるんだってさ。どうせバスケやるなら快適な環境でやりたい」
面倒なので誰かに訊かれる度にそう答えるようにしていた。
夏の体育館での練習ははっきり言って地獄だ。窓や扉を開け放っていたとしても熱気が籠もる。質問した側は大抵、いつもの孔雀の真面目なのかふざけているのか分からないような物言いを知っているので、それで納得したように頷く。
黒板で蠢いていた外来種の記号が急に意味を持った。
孔雀はノートに向かって鉛筆を走らせた。
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家族恒例の冬のキャンプ。
空港で働いている父親は年末年始は忙しいため、毎年冬休みに入ってすぐにこの湖のキャンプ場へやってくる。孔雀が小さい時から続いている唯一の家族の習慣だ。その記憶は孔雀にもあったので、この時ばかりは両親も安心したように昔話をする。
「一度だけ大雨の日があってさ、あの時は大変だったなあ」
「あなたが、予約したんだから絶対行くぞって聞かなかったのよね」
「孔雀はまだ小さかったから憶えてないか」
「いや、雨音が怖くてなかなか眠れなかったのを憶えてるよ」
「あれは怖がっていたのね。雨音を聞いているのかと思った」
「大きくなったよな。もう来年は高校生か。バスケは続けるんだろう?」
「もちろん」
「推薦、本当に受けなくて良かったの?」
「俺はアスリートになる気はない。バスケは、趣味だよ」
「そう。それならいいけど……」
「本業以外に打ち込める趣味があるのはいいことだな」
趣味。……そう。バスケはただの趣味だ。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
コッヘルで淹れたコーヒーを持ってひとりで外に出た。キャンプ場といっても孔雀たちはテントを張っているわけではなく、木造のロッジに泊まっている。冬の空気が冷たかったが、強い暖房で少しのぼせ気味だった身体には心地良かった。
空が澄んでいて美しい。漆黒から紺青のグラデーションを描く天。雲が墨を流したように透け、星が動く。南の宙で天狼が青白く眼を光らせているのが見えた。
”シリウスは漢字で天の狼って書くんだよ。格好いいよね。”
教えてくれたのは誰だっただろうか。
”天秤座は時の天秤。よく気がついたね。”
星が大好きだった誰か。
ぼんやりと空を見ていたら身体が随分と冷えていることに気がついた。手に持ったままのコーヒーもすっかり冷めている。
隣のロッジの前で焚火が燃えている。その火に、人影に混ざって猫の姿が照らし出された。
急にそれが羨ましくなる。猫が傍に居たら寂しくないだろうか。
その考えに自分でぎょっとした。
自分は寂しいのだろうか?
慌てて暖かいロッジに戻った。両親に先に寝ると言って布団に潜り込む。身体は未だ冷えていて、頭の中には先程見た天狼がいつまでも輝いていた。
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「蘇芳、お前、今年も受け取らなかったのか?」
バスケ部の仲間が揶揄うような声をかけてくるのに対して、孔雀はあからさまに面倒くさげに頷く。
「もったいない」
「じゃあお前が代わりに貰えよ」
「女子どもはこんな奴のどこがいいんだか」
「知るかよ」
くだらない。もっとまともな対話がしたかった。
二月。あとひと月ちょっとで卒業だ。
最後の機会とばかりに、教室には期待と落胆の嵐が吹き荒れていた。恋愛は未知の領域だが、面倒くさそうで近づく気になれない。数学より理解不能だ。
恋愛どころか、孔雀は仲間たちともいつも薄い膜で仕切られているような違和感を感じていた。
バスケがあるから仲間たちには恵まれたし、クラスメイトからもそれなりに人気は高かった。あまり自分のことを話したがらないことも、クールな性格だという風に好意的に受け入れられていた。元より、世の中には自分の話を聞いてほしい奴の方が多いのだ。だからそれを丁寧に聞いてやる。それでコミュニケーションには困らなかったし、むしろ相手は満足した。孔雀はきちんと話を聞いてくれる。皆、口をそろえてそう言った。
しかしそれは、心から分かり合ったというのとは少し違う気がしていた。ただ、心から分かり合うなどということがあるのかどうかも分からなかった。
自分のその考え方が、失われた記憶と関係があるのかどうかも分からなかったが、仲間が熱く”男の友情”について語っている時に、つい、”そんなの、事故で簡単に忘れちゃったりするんだぞ”、と心の中で思っていることは事実だ。
事故のことを学校で誰かに話したことはない。何しろ自分が何を忘れているのかもよく分からないのだ。
孔雀が訊かれたことに対して”さあ。憶えてない。”と答えるのは、自分のことを話したくないからだと思われている。それはそれでよかった。
自分は高校生になってもずっとこのままなのだろうか。
ふと、キャンプ場で見た天狼星の輝きを思い出した。
その輝きを思い浮かべながら孔雀は今日もバスケットゴールと向かい合う。近づいてくる何かにじっと意識を集中させながら。今日こそは掴まえてやると思いながら。
『失われた時間』-ヘビクイワシ
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この物語はdekoさんの『少年のさがしもの』に着想を得ています。
鳥たちのために使わせていただきます。