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ヘルベチカはそんなこと言わない

「書体を使いこなすためには、その歴史や背景を知らなければならない」って、誰に言われたのか思い出せないけど、重みのあるアドバイスとして素直に受け止めてきた。実際、多くの人から愛されている書体にはそれなりの歩みがあり、造形の美しさもさることながら、物語としても楽しい。制作された経緯を知れば、使う際の参考にもなる。

学生の頃は純粋に文字を楽しむ人として、書体にまつわる物語に触れていたのだけど、デザイナーとして仕事をしていると、蓄えた知識が邪魔に思えることがある。いっそ何も知らずに、子供のように文字を扱えたらいいのに、と思う。

エヴァンゲリオン

フォントワークスの書体「マティス」は、アニメ『エヴァンゲリオン』のタイトル画面に使用されたことで有名である。マティスの中でも極太のウエイトEBを、黒い背景に白抜きで、特徴的に配置したタイトル画面は(タイトルそのものの強さも相まって)印象的で、「エヴァといえばマティスEB」という話がエヴァンゲリオンのファンのみならず、文字好きの間で知られているのもうなずける。

こういうのって、製作側の窺い知れぬところで、ファンの間で勝手に盛り上がるのが通常だと思うのだけど、フォントワークスはこの書体を「エヴァンゲリオン公式フォント マティスEB TrueType版」として販売している。以前には、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」とタイアップしたデザインのパッケージも販売していたようだ。

書体の売り方として斬新だし、注目も集まるだろうと思う。でも、文字を扱う立場として、少し違和感がある。マティスEBをみたときに、「エヴァだなぁ」と思うからだ。表記内容が、エヴァにまつわる内容でなくとも。

「少年」という単語を、リュウミンで打っても、游ゴシック体で打っても、見た人には「少年」という意味が伝わるはずである。それ以上か、それ以下の意味が伝わっては困る。「エヴァンゲリオン公式フォント」として大々的に売り出されたマティスEBの「少年」は、一般的な概念としての少年ではなくて、特定の少年を想起させる可能性があるのではないか。

イギリスらしさを演出したいなら

「ジョンストン」はロンドン地下鉄のコーポレートタイプとして最も長く使われている書体で、印刷方法の変化に伴って一時期存続が危うくなったこともあるが、河野英一氏によるリニューアルを経て、現在も駅名表示や印刷物に用いられている。イギリスで一般的に見かける書体だから、イギリスらしさを演出したいならジョンストンを使うというのも一つの手だろう。

って、著名なタイプデザイナーの方が本に書いていたので、そうなんだろうなと思っている。私はデザインの仕事をしていてイギリスらしさを演出する必要に迫られたことはないけれど、ジョンストンを使ってデザインされた物を見ると、「イギリスっぽくしたかったのかな、でもイギリスに行ったことはないから、本当にイギリスっぽいのかどうかは分からないけど……」と思う。なんだこれ。

A1ゴシックの群れ

「あの書体は近頃みんな使ってるから、あんまり使いたくないな」と思うことがある。

モリサワの「A1ゴシック」がリリースされたばかりの頃、日本中がA1ゴシックに覆われてしまうのではないかと思うくらいにあらゆる場面で多用されていた。「あ!またA1ゴシックだ!」って、毎日思っていた。そういう群れの一部になりたくなくて、この書体をアンインストールした。

さらに遡ると、私が学生の頃、公共施設や街中の張り紙はどれも創英角ポップ体だった。美大に入学して、少し書体の知識を得た頃、創英角ポップはダサい、あれは使ってはいけない、と思うようになった。でも今考えると、創英角ポップ体が悪いのではなくて、猫も杓子も創英角ポップ体にしてしまう、使い手の側に問題があったはずだ。

どんな書体も、なんらかの用途を想定して作られている。必ずしも製作者の意図に沿う必要はないけれど、目的によって使い分ける必要がある。単独で街中を覆い尽くせるほど汎用性の高い書体は、一つとしてない。

あの人が作ったから

ギル・サンをデザインしたエリック・ギルの行いについては、その書体を詳細に取り扱った書籍には、必ずと言っていいほど記載されている。ゆえに、書体の歴史に興味のある人ならば誰しも知っていることだと思うのだが、ここ数年、この話をSNSで定期的に見かけるようになった。「ギル・サンは使わないようにしよう、他にもいい書体はあるのだから」と言う人がいるけれど、ギル・サンほどいい書体が他にないから困っている。

作者の人間性や行いを作品の評価に結びつけるのであれば、「では、あなたが今身につけている服のデザイナーはどんな人なんですか、その人は潔白なんですか」と問いたくなるのだが、身の回りのもの全てをいちいち点検していたら大変だから言わない。かといって、事実に目を背けて、無邪気に「ギル・サン使おうぜ!」とは言えない。でもやっぱり、「使うのやめようぜ!」とも言いたくない。ギル・サンの歩みを知っているからだ。

そんなことを考えているうちに、著名なデザイナーが作った欧文書体を無条件に賞賛するのもどうかと思うようになった。

日常的に英語に触れていない人にとって、欧文書体を評価するのは難しい。作者の経歴や評価に頼りたくなるのは自然なことだと思う。でも、ギル・サンをあっさり切り捨てるのと同じくらい、「○○さんが作った書体だから良いに違いない!」という態度は、浅はかなのかもしれない。

ヘルベチカはそんなこと言わない

書体や組版といったものに対して、ルールが多くて堅苦しいとか、なんか厳しい人たちがガチャガチャ言ってきそうで怖いとか、そういうイメージを持つ人が多いようである。だからか、そうしたイメージを覆すべく、文字にまつわるコンテンツをカジュアルな雰囲気で設計する流れがここ10年ほど続いている。書体の擬人化は、その極みだと思う。

擬人化は、書体の特徴や印象をわかりやすく伝えたり、書体に親しみを持ってもらうための画期的なアイデアだ。これをきっかけに書体に興味を持つ人が増えたらいいなと思う。でも少しだけ、違和感がある。

擬人化された書体は、ひとりでに言葉を発する。ヘルベチカが、ヘルベチカらしいことを言う。まずテキストがあって、それを表記するための書体を選択する通常の流れとは逆になっている。つまり、書体の存在がテキストを追い越している。ヘルベチカに人格を見出すと、ヘルベチカにこんなことを言わせられない、みたいな気持ちになる。

「書体はニュートラルなものを選びます」

著名なアートディレクター数名に文字の扱いについて問う記事が、雑誌に掲載されていた。「書体を選ぶ時に、意識していることは?」との問いに、ほぼ全員が「ニュートラルなものを選びます」と答える。舌打ちして、雑誌を棚に戻す。

書体にニュートラルであって欲しいと思う気持ちは分かる。そこに意味を持たせたくないからだ。意味はテキストや、写真や、配色や、レイアウトに宿るものだから、書体はそれを支える存在であって欲しい。しかしながら、これまで述べてきたように、あらゆる状況で書体に意味がつきまとう。ゆえに、ニュートラルな書体って、ないと思う。

文字が曇っている

それは、マーケティングの観点から製作者が意図して付与するものだったり、経年や、使う人たちの手によっていつの間にか付着しているものだったりする。どんな書体にも意味がべったりと付着して、曇っている。文字が曇ると、言葉が歪んで、見えづらくなる。

文字の最も大事な機能は、「あ」を、「い」でもなく、「う」でもなく、「あ」として伝えることだ。「少年」を、特定の誰かではなく、一般的な概念の「少年」として伝えることだ。文字は言葉をクリアに伝えなければならない。

私達は書体に、過剰に意味を付与しすぎてはいないだろうか。その背景の物語性に魅了されるあまり、書体をフラットに見ることができなくなってはいないか。何も知らなかった頃のようにクリアな眼で書体そのものを見てみたいと思うのだけど、それがけっこう難しい。

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