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古田織部美術館

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古田織部美術館。企画展は利休七哲。

細川三斎(忠興)、高山右近、蒲生氏郷等の書簡や縁の茶道具(所蔵品、自作品等)が並ぶ。

利休の茶を忠実に継承した細川三斎。
線の細い蟻腰の効いた茶杓や、薄(すすき)があしらわれた八角錐の野風茶器等が印象的。

キリシタン大名として名高く縁の茶道具にもキリスト教の意匠を多く残す高山右近。
家紋の七曜紋と多くのアルファベットが螺鈿で飾られた喰籠(じきろう)や、十字紋を織り込んだ仕覆は印象的。この仕覆はパンフレット右上のものだが、織部好みの長茶入と取り合わされており、両者の交流が示唆されるものとして紹介されていた。

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映像展示もあり、2本のテレビ番組が流されていた。
その概要と感想。

●BS-TBS『諸説あり!』
「千利休はなぜ切腹を命じられたのか?」

ずばり、「秀吉はキリスト教に傾倒した利休を見限った」という説を紹介するもの。
武者小路千家家元の千宗守氏が利休の茶の湯に流れるキリスト教の影響について力説しておられた。
 ・濃茶のまわし飲みは、聖杯で葡萄酒を分け合うミサのオマージュ
 ・にじり口は「狭き門より入れ」(聖書の言)
等の要素から、利休が大いにキリスト教の影響を受けていたとするもの。

日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来着したのが1549年
キリスト教に好意的であった信長、継ぐ秀吉も当初基本的には宣教師に寛大であったが、仏教徒迫害や日本人奴隷貿易、長崎のイエズス会による要塞化などを受け「バテレン追放令」が発令されたのが1587年

一方で、利休と茶の湯の歴史を追うと、堺にて武野紹鴎に弟子入りしていたとされるのが利休20代の1540年代。その後1573年には信長の茶堂となっていたとされる。
そして、秀吉のもと、茶の湯の政治化が最高潮を迎えたのが、1585年京都御所にて秀吉が正親町天皇に茶を献じた禁裏茶会(この時秀吉の後見役を務めた利休は正親町天皇に「利休居士号」を下賜され名実ともに総称としての地位を確立する)や、1587年北野大茶会の頃。
尚、この北野大茶会についても興味深く、後日北野天満宮訪問と合わせ記録したい。

これらの時代の重なりや、貿易都市堺という舞台、利休とかかわりの深い利休七哲もキリシタンと関係が深い、これら考えれば、利休の茶の湯に対するキリスト教の影響というものも、全くないということもないだろう。
”傾倒”とか”キリスト教を表現”とかいうことばはしっくりこないが、利休が表現した茶の湯の世界に、当時の世相の一つとしてキリスト教の要素が映しとられていることに、面白みを感じる。

●BSジャパン『美の巨人たち』
「古田織部『燕庵』」

まず冒頭から、ル・コルビジェのロンシャン礼拝堂の堂内と、織部の作り上げた茶室「燕庵(えんなん)」のイメージの共通性について。

大胆なデフォルメやアンバランスなものへの好みこそが織部の神髄であり、既成概念を壊し築くいわば「破壊の美」が時の権力にそぐわず切腹に至ったのであろうと熊倉功夫先生が語っておられた。


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