幸せも生き方も、そのときどきの自分で決めていい。
1年間の休学が、もうすぐ終わる。
出来事を並べて説明するなら、
「大学4年生を休学して宮城県気仙沼市に移住しました。事業のひとつとして中高生の探究学習をサポートするまちづくり団体でインターンをしました。その他、内省・対話を行うオンラインプログラムの運営に携わったり、まちづくり実践塾に参加したりしました。」
という感じになる。
これももちろん本当だけど、この1年間を一番しっくりくる言葉で表現するなら、「わたしにとって大切なこと」に気づき続ける1年間だったと思う。
毎日毎日、見て、感じて、考えて。
問い続けてこたえ続けて、「わたしにとって大切なこと」を集めてきた。
特に2021年、日常的にnoteを書くようになってからは、大切なことの一つひとつを言葉で表せるようになってきて、強く信じられるものが増えていった。
でも最近、そろそろ新しい景色も見たいな、という気持ちも芽生えてきていて。
そろそろ、一区切りなのかもしれない。
思いきり新しい空気を吸うために。
今の「わたしにとって大切なこと」を思いきり書き綴って、自分のなかにぎゅっと染み込ませたい。
コンテストは終わっているけど、最近ゆっくりとこれまでの棚卸しをしている。
なかでも特に、わたしにとって最大のテーマ。ずっとずっと向き合い続けてきた、じぶんの「生きる」を信じること、信じたい幸せの形を見つけること。これについて、今日は書きたいと思う。
*
何をしたらいいのかわからなかった大学生活
「何をしたらいいのかわからない。」
大学に入ってから、ずっと思っていた。
勉強、習い事、部活。
高校までのように、「これを頑張るのが正解」と、みんなに認めてもらえるような努力のフィールドはなかった。
何をしてもいいけど、何もしなくてもいい。
読書、映画鑑賞、バイト、ギター。
なんとかやりたいことを見つけては取り組んでみたけど、何をしても、「自分がやりたいからやっている」以上のことではなくて、誰にも認められる気がしなかった。
毎日何をして過ごしていても、今よりもっとよく生きられる気がして、このままではいけない気がする。
でも、何をすれば100点になるのか、満たされるのか。自分の幸せがわからなかった。
今の自分の「生きる」に自信がなくて、いつもうっすら苦しかった。
そんな日々を過ごしながら就活を進めるうちに、「それぞれが生きたいように生きられる社会」そんな理想をもった。でもそれって、わたしができなかったことの裏返しでしかなかったから、今、実際に経験して、その価値を実感したいと思った。
そんな思いで、初めて自分の意思で道を切り拓きはじめて。
人が生きたいように生きる力を育めるような教育に興味を持って、いろんな団体を調べたり、話を聞きに行ったりした。
その中で巡り会ったのが気仙沼で、休学してインターンをすることになった。
休学
それぞれが強く意思を持つ人たちに囲まれて学んで、あなたはどうしたいの?とたくさん問われるなかで、自分にとって大切なことがどんどんわかるようになった。
だからこそ、頑張りたいことやできるようになりたいこともどんどん増えていった。
でも、やっぱり不安だった。
より良く生きようとすればするほど、「今」には欠けているものだらけな気がした。
だからずっと、何があればわたしは幸せなんだろう。どう生きたいんだろう。
ずっと考え続けていた。
今も不安はあるけど、最近ようやく、見えてきたことがある。
目的と手段
これを意識するようになって、少し葛藤がクリアになった気がする。
まず、わたしの目的ってなんなんだろう、と立ち止まってみたら。
生きて、幸せでいること。
大切な人と、ともに生きること。
本当にそれだけだった。
「より良くなりたい」という願いがずっとあって、できるようになりたいことや頑張りたいことがたくさんあったけど、そのどれも究極は、生きて、幸せでいることの手段のはずだった。
それなのにいつのまにか、「より良い自分」になって、自分の価値を高めることが目的みたいになってしまっていた気がする。
手段を目的化して囚われないこと。
自分の本当の目的に寄り添って生きること。
目的のために本当に大切だと思える手段を選んでいくこと。
それが大事なんだ。
*
日々、自分に課しているたくさんの「より良い」を見直してみる。
早寝早起きをしよう。
健康的なご飯を食べよう。
人とのつながりを大切にしよう。
医学的に大切だとか、その方が豊かに生きられるとか、それはわかる。
でも、「自分が幸せを感じるかどうか」という目的に立ち返って、今の自分にあった手段を考え直してみたら、違うかもしれない。
今日は遅寝になってでもやりたいことをやりきった方がスッキリするかもしれないし、今日はカップラーメンを食べた方が元気になれるかもしれないし、今日はとことんひとりでグータラした方が、癒されるかもしれない。
やりたいことと見せかけて案外「べき」に縛られているのかも。
「わたしにとって」今大切なこと(目的)はなにか。今必死になっていることは、そのための手段になっているか。
あれもこれもとどんどん自分に課さないで、ほんとうに望んだもので満たされるための、努力や我慢、勇気を丁寧に重ねていきたい。
*
最近はちょっとずつ気をつけられるようになっている。
今書いていること、本当は「自分にとって大切なこと」コンテストに応募しようと思っていた。
でもどうしても忙しかったし、なんだか書いていて気持ちよくなくて、うまく書けなかった。
「頑張らなきゃ」と思ったけど、ふと考えなおしてみたら。
その時のわたしにとって、コンテストに応募することは、幸せでいるための最適な手段じゃなかった。
疲れているから、ちゃんとご飯を食べて、ゆっくりお風呂に入ることの方が大事だった。
今書いていても、そんなの逃げだと思われるかなと少し怖くなる。
でも、何が逃げで何が大事かは、本当にそれぞれが自分で決めるしかないんだ。正解っぽい「べき」に惑わされない。
毎日投稿とかコンテストに出すとかは大切でなかったけど、毎日言葉と向き合う時間は心から大切だと思ったから、「毎日2時間は書く時間をつくる」と目標を立ててみた。
本当に大切なことなら、苦しくても疲れても、どこか気持ちよく続けられるし、心の奥の方は満たされるのだとわかった。
手段はあくまで手段だから、うまくいくない時は目的に立ち返って、また違う手段を考えてみる、なんて柔軟性も身につけていきたいなあ。
*
めんどくさくても難しくても、大切だと思うならやる。
良さそうで、みんなに認めてもらえそうでも、大切だと思えないならやらない。
それを守っていきたい。
わたしにとって大切なことを大切にしたい。
わたしにとって大切でないことは、しがみつかずに手放したい。
シンプルなことだったんだ。
とにかく、自分を誤魔化さないこと。
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そして帰ってくる、2年前、大学2年から3年に上がる春休みにもらったある言葉。
何したらいいんだろうという不安のど真ん中にいて、高校時代お世話になった世界史の先生に会いに行ったときのこと。不安でいっぱいで泣いていた。
その中で先生が、誰だったか忘れたけれど世界史上の人物の話を引用してはにかみながら話してくれた言葉は、ずっとわたしの中にあった。
人間の最大の目的は幸福であることだ。
幸せであるために何かになろうとすることはあっても、何かになるために幸せであろうとすることはないから。
幸せは手段じゃない、幸せが目的で、全部そのための手段なんだよね。
今の若者は、自己実現とか社会貢献とか、そういうものに目を向けがちだけど、そうでないところにある小さな幸せがたくさんある。むしろそういうものの方が多いと思う。
人生の目的は幸せ。それでいいんだ、と、先生の言葉をすごく信じている気持ちでいっぱいな反面、やっぱりわたしはすごくなりたいし、自己実現も社会貢献も手放せないなぁと思っていた。
やっと気づく。
2択ではないんだ。小さな幸せでも、自己実現でも社会貢献でも、「そのときどきの幸せ」のための手段を選べていたら、それでいいんだ。
どう生きていけばいいんだろう。
わたしは何が幸せなんだろう。
あんなに強かった不安が少しずつ消え始めている。縛られていた心が自由になっていく。
何が正解かはその時その時、自分で決めるしかない。だからできるだけいつも、その時々のじぶんの心に、目的と手段に、素直でいたいと思う。
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