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【日本史8】平安史備忘録8(平城太政天皇と嵯峨天皇と薬子の変)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①平城天皇は病を原因として809年(大同4年)に皇太子弟である神野親王に譲位した。そして嵯峨天皇(52代目)が即位した。

平城天皇は律令に則って太政天皇となり平城京に御所を造営し移住した。

②こうして太政天皇と天皇は対立関係となった。この退位した天皇を示す太政天皇の略称は上皇であった。平安時代中期から退位した天皇を上皇と呼ぶようになった。

③2人の仲が決裂する決定打は観察使を廃止して代わりに参議の職を復活させよという詔を平城太政天皇が発した事にあった。嵯峨天皇が観察使の収入を廃止した措置に対抗したものであった。

④内侍(ないしのかみ)という女官の頂点に薬子が就いていたので嵯峨天皇は機密文書を扱う蔵人所を設置した。蔵人頭に北家の藤原冬嗣と陸奥鎮守副将軍であった巨勢野足を起用した。

⑤この二所朝廷時代は天皇と太政天皇は同等の権力があった。

平安京の嵯峨天皇と平城京の平城天皇(太政天皇)が並立している状態であった。

⑥810年(大同5年)に平城太政天皇が平城京への遷都の詔を発した。嵯峨天皇は都にいた藤原仲成を捕まえて翌日に処刑した。

薬子の官位を奪い宮中から追放した。太政天皇側の官人の役職を解いた。

⑦天皇側の官人を昇進し新任させた。

平城太政天皇は兵を集めて薬子とともに東国に向かおうとしたが関所は嵯峨天皇に封じられていた。平城京に戻った平城太政天皇は出家し、薬子は毒で自害した。

⑧この政変は薬子の変である。

平城太政天皇の皇子である高岳親王は皇太子を辞めさせられた。代わりに嵯峨天皇の異母弟の大伴親王が皇太弟となった。

⑨平安初期に天皇の命令によって編纂された『日本後紀』によれば薬子と仲成がこの事件の首謀者と書かれている。

近年では平城太政天皇の関与が認められている。ゆえに平城太政天皇の変とも云われる。

⑩中成と薬子の式家は没落し嵯峨天皇の側近である北家の冬嗣が朝廷政治を担っていく事となった。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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