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【歴史のない日本伝統25】正座

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

今回は正座の歴史のなさを説明する。
正座は明治新政府によって喧伝されたものだ。

正座が文字通りの正式な座り方になったのは江戸時代の事で庶民が正座をするようになったのが明治時代以降とされている。

両膝を折って腰をおろす座り方は奈良時代から中国から日本に伝わったと云われているが普及はしなかった。一般的には胡坐(あぐら)や立膝であった。

平安貴族の女性は立膝、横座りだったと考えられている。
清少納言や紫式部も正座はしていなかった。

その後も基本的に胡坐と立膝であった。茶道の創始者と云われている千利休も胡坐で茶を点てていたとされる。また胡坐は安座と呼ばれて大名の正しい座り方として認められていた。

貴人や神仏を前にした時は正座の座り方で拝礼するようになっていた。正座という呼称はなく「かしこまり」や「つくぼう」と呼ばれていた。座り方に変化が生まれたのが江戸時代である。

普及をうながしたのは徳川三代将軍家光であった。徳川家光が将軍に就任したのは1623年であり戦国時代最後の戦い「大坂夏の陣」が終わりまだ8年しか経っていなかった。

そのためまだ世間には戦国時代からの殺伐とした雰囲気が残っており将軍といえどもいつ謀反にあうかわからなかった。家光は家臣や諸大名が自分と謁見する際に正座を強いた。目的は足を痺れさせて急襲を防ぐためと云われている。

江戸時代には武家の作法に小笠原流が採用されたこともあり同流派のすすめた正座が広まった。こうして畳の普及に一役買った。

畳は平安時代にできたと云われているが初期は持ち運び可能なクッションのようなものであった。室町時代になり書院造が出現して部屋全体に敷き詰められるようになった。

畳が庶民に広まったのは江戸時代であった。畳職人と呼ばれる職業が成立して江戸や大阪といった都市部の長屋にも畳は敷かれた。こうして正座は一般的となった。農村の民家は板敷きのままだったからほとんど正座はしなかったと考えられる。

正座には危座という呼び名もあった。これは罪人を取り調べる際に強制したものであり拷問である。

正座の拷問といえば石抱きが有名である。これは三角形の板が並んだ台の上へ正座させられて体を柱に縛り膝の上に石板が積み上げられていくというものだった。

地面や板の上に長時間正座させておくだけで効果はあった。足がしびれて苦痛を訴えても許さず自白を促すというわけだ。

こうして正座はいつの時代でも苦痛を伴い血行の悪化による悪影響も指摘される。

これが正しい座り方とされたのは明治新政府が喧伝したためだと云われている。

西洋を模範とした新政府は庶民にマナーを普及させようとした。

しかし日本に椅子に座る文化は根付いていなかった。そこで背筋がまっすぐ伸びて姿勢が美しく見える正座を奨励した。

現在正座と云われる言葉の初出は1882年(明治15年)の『小学女子容儀詳説』とされる。こうして正座が正式な座り方とされ胡坐は下品であり立膝など邪道という風潮になっていった。

(結論)
胡坐や立膝が伝統的な座り方だった。正座と云われる座り方は急襲防止策や拷問で使われていた。明治中期に現在の正座が確立し胡坐や立膝はダメな座り方だと認識されていった。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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