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ギブアンドテイク戦略を取らない理由

もしこの社会にAさんとBさんしか存在しないのであればギブアンドテイクによって対等な関係は形成可能であろう。この場合私がAさんであればBさんにギブをする事に躊躇はない。

しかし実際はAさんは多くの社会関係網に囲まれている。Bさんも同様である。それは単に家族や夫婦関係、友人関係や異性関係かもしれないし業界や宗教やマルチの関係網、習い事やお店の常連関係網かもしれない。

私はそこまで関係網はないし、交友関係は狭い方である。しかし私は基本的にどんな人であっても対等な関係を心掛けている。あまり年齢や役職や性別や国籍や症状の有無で態度を変えない。

親であっても友人であっても職場の人であっても態度は変えない。態度を変えるのは不自然極まりないからだ。

人によって思考の引き出しが違うので周波数を変える事はあるのだが根幹の部分は誰であれ変える事はない。オンラインでもオフラインでも同様である。

ゆえに特定の誰かにギブしいずれテイクを待つというのは他の関係網から考えるとフェアではないと考えている。また仮に懇意なファンから何かもらっても全く嬉しくはない。

それは私がする事ではなく私が払っている税金から間接的にギブすればいいという考えである。私の税金が給食や道路に使われていればそれで問題ない。

なので一一他人にはおごらないし、誰にも何にもあげない。それが回り巡ってフェアネスになるというのが私のスタンスだ。善意で誰かをサポートもしない。普通に付き合えればそれでいい。

だから私は推しや応援という行為は凄く苦手である。自ら社会分断を作り出して楽しめる神経がよくわからない。新興宗教やマルチと構図は同じではないだろうか。

現状のイスラエルのような国際分断を図っているケースであれば反イスラエルで連帯する姿勢は凄くわかる。しかしそれはイスラエルが国際秩序を破壊し続けているからだ。

プレゼントをあげれば他者が喜ぶという発想は失礼だが凄く田舎臭い行為だと考える。

プレゼントを特定の誰かにあげる行為は社会分断に繋がりかねない。私は誰に対しても親切に接するがだからと云って何か贔屓をする事は決してしない。それが近現代人の嗜みとして何の問題があるのだろうか。

学習教材(数百円)に使います。