事なかれ主義は悪影響である
事なかれ主義の最大の弊害は、「判断力の著しい低下」と「運動静止」である。
そして「判断力の著しい低下」「と「運動静止」を客観性、中立性、冷静、社会常識、社会人の嗜みという言葉に置き換えることで、さらに事なかれ主義は浸透していく事になる。
「判断力の著しい低下」と「運動静止」が客観的だった事はなく中立性だった事はなく冷静だった事はなく社会常識だった事はなくましてや社会人の嗜みでもない。そしてこれは現実とは相反する効用となる。
判断力の著しい低下とは、内的なYES/NOの境界線を明白にしないのでなんとなく家庭、学校、会社、宗教、交友関係(友人、恋人、親子、夫婦、ビジネス)に漂うその場の雰囲気や外圧で選択を決めてしまう事である。
たとえば気づけば親という立場で、会社や宗教の組織人という立場で、恋人という立場で、夫婦という立場で、外圧的な通俗体裁ですべてを選択するようになり非合理な義務や責任感が優先され、内的な決定は一切行えなくなるという事だ。
そしてそこで得た苦労や困難に耐えきれなくなると、他人に同じようなマインドを埋め込まざるをえなくなる。これが日本社会の根底にある抑圧委譲だ。もしくはそのマインド通りに動く事で安心する謎のマインドが習得される。
これを何十年も続けていく事で外圧で動く社会性は会得しても自己と環境のボーダーラインを明白化できない優柔不断な人になってしまう。よくいる「確かに良い人なんだけど、結果的に社会的に何の模範にもならない象徴」となる。
子どもから見て、後輩から見て、新人から見てなぜ尊敬できる人がいないのかはまさに判断力の低下した通俗体裁を「社会人の嗜み」と置き換える組織人が多数だからである。
運動静止とは、必然的に起こるはずの上下運動(対立・喧嘩・交渉・譲歩・調整)が起こらなくなるので、個々人の対人関係の押し引きが習得されなくなる。
そしてその押し引きが起こらない事を、中立性、冷静、社会人の嗜みというそれっぽい概念に置き換えられより委縮していく事になる。
その結果、上層の政治家や経営者の思考が社会全体から乖離され、下層民も運動静止状態に慣れすぎてしまい、社会運動が起こらなくなる。社会運動が起こらないという事は、現状維持を繰り返し表層ブランディングでの誤魔化しとなる。
それによってシステムも劣化し、個々人も劣化し、全体が劣化していく。
中立論が横行し、権力勾配はさらに広がり、民主主義のなかから専制主義が当然のように出てくる事になる。そしてその専制主義や権威主義に嵌るようになる。それがアイドルやスピやネットの狭いクラスタ文化に顕著に表れている。
無論人がすべての事象を完璧に判断する事はできないだろう。
ただしそうだとしても適宜判断をし内的なボーダーラインを提示して有機的な運動を示していく。それが社会人としての嗜みだろう。
学習教材(数百円)に使います。