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【歴史概要9】アッバース朝・後ウマイヤ朝・ブワイフ朝・ファーティマ朝
①アッバース朝では異民族であってもイスラーム教に改宗していればジズヤは免除されるようになった。こうしてムスリムの平等が実現した。このため正統カリフ時代・ウマイヤ朝をアラブ帝国といいアッバース朝をイスラーム帝国という。
②アッバース第5代カリフはハールーン・アッラシードである。
この時代に都のバグダードは唐の長安と並び勃興した。
フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)と親密な関係を維持した。ただシーア派は少数派という事で弾圧を受け、イラン系のバルマク家を排除した事は政治的な不安要因となっていた。
③イスラーム共同体であるウンマを樹立する目標はアッバース朝が成立した段階で瓦解する事となった。
ウマイヤ朝の一族のアブドゥルラフマーン1世がイベリア半島(ヨーロッパ南西)に移り、コルドバを都として後ウマイヤ朝を樹立した。後にカリフの称号を使い始めた。
10世紀にイランで成立したシーア派(穏健12イマーム派)を奉じるブワイフ朝はアミール・アル・ウラマー(最高軍司令官)の称号を用いてカリフの権威を軽んじた。
10世紀後半にチュニジアで勃興し、エジプトのカイロを拠点にしたファーティマ朝のシーア派(過激イスマーイール派)政権はアッバース朝に対してカリフの称号を使い始めた。
これによりイスラーム世界ではアッバース朝、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝が同時期に3人のカリフが擁立されるという事態となった。
④トルコ人はマムルーク(傭兵)としてイスラーム軍団の中核にいた。その中でセルジューク朝が起こり1055年にバグダードに入りブワイフ朝を滅ぼしアッバース朝の庇護者となった。こうしてセルジュークの君主にスルターンの称号が与えられた。
ブワイフ朝が名乗ったアミール・アル・ウラマーに準じた称号でありスンナ派の国家首長に与えられた。こうしてカリフはムハンマドの後継者という権威のみの称号となる。
⑤十字軍運動が興るが、アッバース家は支配を持続していく。しかし1258年にモンゴルの侵入によってバグダードは陥落する。
アッバース朝は崩壊した。アッバース家はカイロに亡命しマムルーク朝の保護を受けた。
■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社
学習教材(数百円)に使います。