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【日本史8】平安史備忘録31(五代十国・宋・高麗・唐・新羅・渤海滅亡・迎賓・鴻臚館)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①8世紀半ばの安史の乱の後に塩の商売人であった黄巣をリーダーとした黄巣の乱が勃発した。

反乱軍に都の長安が一時占領された。

②鎮圧はできたが10年に及ぶ反乱で皇帝権威は失墜した。そして907年に唐は滅亡した。唐の滅亡後は後梁、後唐、後晋、後漢、後周という王朝が成立して滅亡をくり返した。

③その周囲に10の国が滅亡したのことでまとめて五代十国という。このなかで日本と国交を結んだのは南方の呉越国(浙江省と江蘇省の一帯)のみだった。その関係も10世紀半ばで途絶えた。

④後周の有力武将だった趙匡胤が皇帝に即位し960年に建国された宋が中国大陸の統一を推進していた。呉越国は余裕がなく978年に宋にくだって滅亡した。

⑤9世紀以降の朝鮮半島では反乱が多発した。新羅の支配力が弱まると複数の国が誕生した。918年に成立した高麗が勝利し936年に朝鮮半島を統一した。

⑥渤海はモンゴル系の契丹族が樹立した遼に926年に滅ぼされた。
日本と国交のあった唐、新羅、渤海という東アジア諸国が
10世紀前半に立て続けに滅亡した。

⑦日本は諸外国の混乱に巻き込まれないように公的貿易を規制した。大陸から商人が来日する間隔を定めた。守らないで来航すると追い返していた。ただ民間貿易は行っていた。

⑧貴族たちは唐物(輸入品)を重宝していたからだ。朝廷や天皇が貿易によって入手したものを貴族に分け与える、大宰府の官人が贈答品として出し出す、九州の受領国司や大陸の商人によって直接持ち込まれるなどした。

⑨外国との窓口施設は飛鳥時代からあった。

外国からの使節団の迎賓と宿泊の役割を兼ねた外交施設として鴻臚館(こうろかん)が平安京の東西に1ヵ所ずつ、難波(大阪市)、博多津(福岡市)にあった。

⑩9世紀以降に外国使節団が来日する頻度が減っていった。難波の鴻臚館は摂津国(大阪府北中部と兵庫県の南東部)の国府として使われた。平安京の2ヶ所は廃止された。

⑪博多の鴻臚館は博多湾の防衛、民間レベルの貿易場、
外国使節との交渉窓口として11世紀半ばまで使われた。

⑫日本の商人は基本的に国外に行かなかったが大陸に渡った人もいた。

東大寺僧侶の奝然(ちょうねん)は宋へ帰国する商船に便乗した。983年(永観元年)に宋へ渡った。宋の2代皇帝の太宗に謁見した。

⑬僧侶として最高の地位を得た。帰国後は東大寺のトップにあたる別当にまで昇進した。その後も寂照、成尋、戒覚などの僧侶などが大陸へ渡った。仏教を通じて交流していった。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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