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自己中心主義は善意によって成立する

「自己中はよくない」ということは特に説明がなくても共有されている観念であるが、「どの状態が自己中なのか?」についてはあまり問われない。だから自己中は辞めづらいのである。

人が自己中になるのは、「自分を中心に自然、社会、世間、組織、集団が回っているんだ。」と確信した時であり、実際に権限を発動することで自己中心性はさらに膨張していく。

業界セクト主義は、最たるものだ。「〇〇という役職(立場)である自分がこの組織を牽引している。」「私は〇〇業界のセンターでリードしている。」「私が経済を回しているんだ!」

これが自己中である。本人の実存と社会構造には必ず齟齬がある。しかし本人はその齟齬をなかった事にして同一化させる。

これが自己中である。

カルト宗教もそうである。「〇〇というミッションを与えられた私は神の業を代行している。」「だからどんな不正な勧誘も神の理に適っているからやっていいんだ。」となる。

「日本や天皇を中心とした神の国をつくるんだ。世界上の人々は天皇の家族なのだ。」という八紘一宇はエスノセントリズムと直結しており、とんでもない自己中であった。保守主義者である石橋湛山が提唱した小日本主義とは正反対のマインドである。

推し活やホスト・ホステス狂いも同じである。「私は〇〇さんを支えているのだ。応援しているのだ。」という自分中心主義(=親衛隊マインド)は実存安寧を満たす事はできるが、現実的には何の意味もない。馬鹿が山で吠えているのと変わりはないのである。

自己中心主義というのは必ず他者のため、社会のためという常套句を使いながら個人の実存安寧を得るために行われる事が多い。

だから悪気はなかったりする。悪意でもなく偽善でもないのである。ただ善意のもとに精神安寧(=私の存在意義)を満たすためにしている。

こうしてみると、自己中心で我が儘がどれだけ社会にとって有害なのかがわかるであろう。個々人の精神安寧を得るためにカルト業界、カルト宗教、カルト右翼、カルト親衛隊は今日も暗躍し続けるのだ!

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