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【歴史のない日本伝統5】戸籍・名字・夫婦同姓
右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。
今回は戸籍や名字や夫婦同姓の歴史のなさを説明する。
戸籍や名字や夫婦同姓の歴史はきわめて短かった。
「選択的夫婦別姓にすると伝統的な家族制度が壊れてしまう」と右翼は強調するが家族制度自体が明治時代から戦後までの約70年しか存在しない。夫婦同姓自体も同じぐらいの歴史しかない。
朝廷が女性に官位を叙する時などは実家の姓を用いたもののプライベートでは婚家の姓を使っていたとの説がある。しかし戦国時代における女性は政略結婚の手段でしかない。
ゆえに離婚と再婚をくり返したケースも多く高家の出身であれば実家の姓を使い続けていた可能性はあるし姓を名乗らなかったとも考えられる。
江戸時代になって家制度が定着すると武家の妻は夫の姓を名乗るようになった。これは妻妾同居だった事もあって正妻と妾を区別するという理由もあった。
幕府は庶民などに正式な場での名字を禁じていた。私的な場所では名字を使う農民や町人も多かった。しかし農村などでは一族が同じ地域で生活する事が多い。
そのため名字とは別に屋号で示したり名前だけで名字を名乗らなかったりした人も多くいた。当時は戸籍が存在せず檀家制度で使われた宗門人別改帳(人別帳)だが寺が管理する人数は限られており機能しなかった。
明治時代になると中央集権化を急ぐ政府は全国民の居住状況を把握する必要があった。そのために戸籍制度が設けられたのだ。
1871年(明治4年)に政府は戸籍法を制定して翌年に戸籍を編製した。この時に必要に迫られて名字を庶民に許した。
1870年(明治3年)になると戸籍制度を立ち上げる都合もあり庶民の名字禁止は解かれた。9月には平民名字許可令、1875年(明治8年)の平民名字必修義務令によってすべての国民が名字を持つようになったのだ。実はこの時点ではまだ夫婦同姓ではなかった。
1875年に石川県は政府に対して「嫁いだ婦女は終身その生家の氏とするか嫁が家督を継ぐなど夫婦の氏とせねばならぬ場合はどう示すか」と政府に伺いを立てた。
翌年に明治政府の最高機関である太政官は「婦女の名字は所生ノ氏とし但し夫の家を相続した場合には夫家ノ氏とする」という指令を出す。女性の名字は結婚していても実家の名字であり跡継ぎがなくて夫の家督を相続したときは婚家の名字を名乗るとした。
すなわち夫婦別姓が認められていたのだ。
夫の姓を名乗るように強制されたのは旧民法が施行された1898年(明治31年)からだ。
現在の民法では第750条で「夫婦は婚姻の際に定めるところに従い夫又は妻の氏を称する」と定められている。
これによれば夫の姓である必要はなく妻の姓を使ってもいいはずだ。しかしいまだに結婚を入籍という慣習は残っている。現在は離婚後も元夫の姓を名乗る事はできる。民法規定が変わったのは1976年(昭和51年)である。
(結論)
明治以前は戸籍は存在せず宗門人別改帳(人別帳)があったが機能していなかった。名字はあったが庶民は正式な場所で使わなかった。国民の名字が義務化されたのは1875年(明治8年)でたいした歴史はない。夫婦同姓が強制されたのは1898年(明治31年)であり日清戦争と日露戦争の間で更に歴史がない。
右翼が「選択的夫婦別姓にすると伝統的な家族制度が壊れてしまう」というのはそもそも同義矛盾だ。明治政府は選択的夫婦別姓から強制的夫婦同姓に移行した。選択的夫婦別姓にしていても成立していたので要は何の問題もないのだ。
■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社
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