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【日本史8】平安史備忘録44(奥州藤原氏・中尊寺・金色堂・ジパング・世界の記述(東方見聞録))

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①平氏と源氏の武士団が存在感を高めていた時代に奥州(東北地方)では藤原氏が一大勢力となっていた。清原清衡は清原氏の領地を継承して藤原姓を名乗って奥州藤原氏の祖先となった。

②清衡は藤原秀郷の子孫とされて、母の安倍氏は俘囚だったので自ら俘囚の頭と称した。都から来た貴族の子孫と奥州に土着した蝦夷の血筋であり奥州の民に影響力を持った。

③奥州藤原氏の統治地域は陸奥国の奥六郡と出羽国の山北三郡で現在の青森県、秋田県、岩手県にまたがった。中心地の原罪の岩手県南部の位置した平泉は砂金の産地として栄えた。

④奥州藤原氏の繁栄を象徴する建築物の代表格が現在の平泉町平泉衣関に立つ中尊寺であった。850年(嘉承3年)の最澄の弟子である円仁によって創建された寺院で奥州における天台宗の寺院を統括する天台宗東北大本山となった。

⑤13世紀初頭に清衡は前九年合戦と後三年合戦の戦没者を弔うために中尊寺に複数の御堂を築いた。1124年(天治元年)につくられた阿弥陀如来を祀る金色堂は黄金ずくめの建物であった。

⑥中尊寺の東を流れる北上川沿いには堀をめぐらせ平泉館が築かれた。建物の最大長725m、最大幅が212mであり平泉の政庁と云われている。

⑦奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代続いた。清衡が1128年(大治3年)に亡くなり当主となった基衡は中尊寺の南方に毛越寺を造営した。

⑧規模は中尊寺をしのぎ、浄土を意識した広大な庭園を備えて40の堂塔、500の僧坊があったと云われている。後に戦乱で大半の建物がなくなった。

⑨基衡が当主の時代まで、奥州藤原氏と朝廷が任命した国司が衝突をしていた。基衡は1143年(康治2年)に陸奥守となった藤原基成と友好関係を築いて基成の娘を秀衡の妻に迎えた。

⑩基成は鳥羽上皇の近臣であったので朝廷と奥州藤原氏の結びつきが深まった。秀衡の時代には1170年に奥州一帯の軍司令官である鎮守府将軍となった。現地の存在者がこの地位に就くのは異例であった。1181年(養和元年)に秀衡は陸奥守に任じられた。

⑪奥州藤原氏は博多(福岡県福岡市)を経由して宋と交易をした。貨幣経済が発達していなかったので黄金の大部分は海外商品の購入に使われた。螺鈿細工、紫檀や赤木、アザラシの毛皮、渥美焼や常滑焼などが入ってきた。

⑫鎌倉時代の『吾妻鏡』によれば平泉館の宝物を収めた蔵には原産地がインドやアフリカであるサイの角、象牙の笛、水牛の角などもあったと云われている。

⑬ヴェネツィア共和国(イタリア北東部にあった国)の商人マルコ・ポーロの談話を書かれた『世界の記述(東方見聞録)』ではジパング(日本)が黄金の国とされている。これは平泉の金色堂の話が誇張されて伝わったと云われている。

⑭『世界の記述』をベースにヨーロッパ人の間で東アジア地域に黄金の豊富な島国があると知られて15世紀~16世紀の大航海時代にアジア渡航をうながす一因になった。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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