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【日本史8】平安史備忘録32(浄土教・末法思想・空也・源信・平等院・定朝様・来迎図)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①平安時代初期から皇族や貴族を中心に現世利益を求める密教は信仰された。

10世紀以降には如来や菩薩が存在するという浄土を願う浄土教の信仰が広まっていった。特に阿弥陀如来信仰である。

②釈迦の入滅から2000年後の1052年(永承7年)から仏法が衰えていき世が乱れる時代が到来するという末法思想が背景にあった。天災が発生して疾病が流行した事も信仰に繋がった。

③浄土教を広めた僧侶には空也がいる。10世紀に諸国を行脚した後には都の東市や西市の門前などで「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える事を説いたので市聖(いちのひじり)と呼ばれた。

④空也は六波羅蜜寺(京都市東山区)の前身の西光寺を建立した。

天台宗出身の源信(恵心僧都)は浄土教の教えを『往生要集』にまとめた。地獄や極楽のイメージは『往生要集』がモデルとなっている。

⑤源信は念仏を唱える事を勧めた。「厭離穢土欣求浄土」という極楽浄土に到達するための教えを説いた。極楽浄土の世界の表象する事(観相)が重視されたので極楽浄土をこの世に表現しようとする浄土教美術に影響を及んだ。

⑥建築では池を中心とする庭園と西側に阿弥陀如来を安置する
阿弥陀堂が配置された寺院が造営された。1052年(永承7年)には
藤原頼通が建立した平等院があった。

⑦平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)に祀られている阿弥陀如来座像は有名な仏師であった定朝(じょうちょう)の製作による唯一の像とされている。平安時代初期ごろまでの仏像は「一本造り」という技法で造られていた。

⑧定朝は仏像の各部位を別々に製作してそれらを寄せ合わせて1体の像にする「寄木造り」という技法を完成させた。

こうして短時間で大量量産できるようになった。大型仏像も造れるようになった。

⑨この彫刻様式は「定朝様」と称された。鎌倉時代に運慶・快慶らが出てくるまで仏像彫刻の主であった。

⑩海外では極楽浄土を願う人々が臨終に際して阿弥陀仏が迎えに来る様子を示した来迎図がよく描かれていた。高野山有志八幡講十八箇院が所蔵する阿弥陀仏聖衆来迎図が傑作である。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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