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【日本史7】鎌倉史備忘録26

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①農村で農業経営の中心存在となったのが名主と呼ばれる上層農民であった。下人や所従に農業に取り組ませたが余った土地の農業は作人に委託した。

②大規模な飢饉の始まりは北条泰時(3代目執権)が執権だった1231年(寛喜3年)の寛喜の大飢饉であった。

③前年に夏は美濃・信濃・武蔵で降雪が観測されて冬は暖かった。その影響で全国的な凶作に見舞われた。1231年の春から夏にかけて餓死者が急増した。京都では疫病が流行した。

④泰時は伊豆・駿河の領国に「富裕層に対する米の貸出命令」を出した。泰時は返済不能になった場合自ら負債を肩代わりする方針を打ち出した。

⑤朝廷は飢饉対策を行った。しかし飢饉沈静化を祈るために朝廷が約800人を伊勢へ向かわせた結果、旅費は道中の国々である近江や伊勢国の負担となりかえって逆効果であった。

⑥泰時は積極的に推進ではなかったが臨時措置として人身売買を許可した。人身売買の悪と餓死者の続出を天秤にかけてやむを得ず決断をした。1239年(延応元年)4月には禁止された。

⑦寛喜の危機を乗り越えたが、1258年(正嘉2年)ごろから正嘉の大飢饉が始まった。餓死者の続出、疾病の流行、百姓の逃亡が相次ぎ、地震、洪水、火事などの災害も相次いだ。

⑧幕府は禁じていた山や海に立ち入って自然物の採取を認めるなどの対策をとったが根本解決にはならなかった。

⑨1256年(康元元年)から1261年(弘長元年)までの6年間に5度も元号を変えるほど社会が不安定であった。

⑩農業技術が飛躍的に発展した。畿内を中心に米を栽培していない時期に麦を栽培する二毛作が普及し限られた土地での農業効率が上がった。これは現代でも使われている。

⑪米の品種改良や肥料の変化により米の生産量が向上したのは技術革新によるものだった。耕作や収穫の効率化も計られて牛馬利用の工作、農民全般の農具普及も進んだ。

⑫生産力の向上で農村では農民の自立の変化が生まれた。荘園領主から土地をあてがわれてこれを耕作する作人の独立や下人や所従の作人化が進み名主たちも許容した。

⑬鎌倉時代の農村発展はこの時代のヨーロッパやイスラーム文化圏と類似している。世界的に春耕地、秋耕地、休耕地を入れ替えていく三圃制の導入で生産量が増えていった。

⑭生産力は向上したが社会は不安定であった。モンゴルの襲来や相次ぐ天災で社会は深刻な状況であった。農民が力を得た事による地頭や領主への反発が起こっていく。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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