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【歴史概要52】ベルリン条約・マフディーの乱・ファショダ事件

①ベルギー王のレオポルド2世は1878年にコンゴ地方植民地化の
準備としてスタンリーを派遣して首長との友好関係を深めた。
道路網などのインフラ整備を行わせた。

②コンゴ川下流域で利権の拡大を目論むポルトガルが反発した。イギリスはポルトガルを支援し、フランスはベルギーの支援にまわった。ドイツはベルギーの支援にまわった。

③このような対立のなかで調停目的の国際会議がベルリンで開かれた。主催者はビスマルクであった。1884年から1885年に開催されアメリカも含めた14カ国が参加した。

④ここで結ばれたベルリン条約はコンゴ盆地の自由貿易や中立化などが確認された。統治権はレオポルド2世が組織した今後国際協会に認められた。コンゴはレオポルド2世の私有財産となった。

⑤レオポルド2世の植民地支配は凄まじかった。象牙やゴムの採集が義務づけられノルマに達しないと手足を切断するなどの残虐非道な事が平然と行われていた。これは非難され、主権はベルギーに譲渡された。1908年にベルギー領コンゴが成立した。

⑥またアフリカ沿岸部での新規領土併合の条項が設けられ列強による植民地分割にルールが設けられる事となった。主にベルリン条約加盟国に伝えて各国間で利害調整を行うことが決められた。

⑦19世紀前半は列強のアフリカ進出が進んでいった。ウィーン会議でケープ植民地を獲得したイギリスはエジプトのオスマン帝国への戦争に介入しながら利権拡大に努めていった。

⑧イギリスはエジプトに拠点を築きアフリカ大陸の南北を結ぶ縦断政策を推進した。南部の拠点はケープ植民地でその線上であるローデシア(ジンバブエ/セシル・ローズが由来)やケニアなどがイギリス領であった。

⑨フランスのアフリカ進出は、1830年の七月革命直前にシャルル10世が行ったアルジェリア遠征が端緒となった。

⑩フランスはサハラ砂漠を中心に勢力を拡大していき紅海・インド洋方面への進出を図っていった。紅海の出口で確保した拠点がジブチであった。コートジボアールやコンゴ(ベルギー領と対立しフランスが領有)から北上しサハラと結ばれた。

⑪イギリスはアフリカの南北に拡大する縦断政策でありフランスはアフリカの東西に拡大する横断政策であった。

⑫イギリスとフランスが直接対立する事となったのがスーダンであった。スーダンはエジプトのムハンマドアリーが支配下に入れていた。

⑬エジプトをイギリスがサポートした事でイギリスの支配はスーダンに及んだ。これにより反英闘争としてマフディーの乱が起こった。マフディーとはメシア(救世主)の事でありイスラーム世界の危機的な状況に現れると云われている。

⑭スーダンのマフディー国家は1885年にハルツームを陥落させた。そして十数年は独立を維持していたがイギリスに敗北した。ハルツーム攻防戦では太平天国鎮圧でも活躍したイギリスの軍人ゴードンが戦死している。

⑮1898年にイギリスとフランスが衝突の危機に直面した。これがファショダ事件である。両国の司令官キッチナーとマルシャンは本国の判断を仰いだ。

⑯当時のフランスはドレフェス事件(ユダヤ人将校ドレフェスがドイツのスパイとされた冤罪事件)などで混乱していた。デルカッセのような武力解決による強硬策もあったがフランスが譲歩し決着した。1904年の英仏協商でモロッコとエジプトの優越権を相互に認め合った。これが後のドイツのモロッコ介入の起因となった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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