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【歴史概要48】征韓論・江華島事件・壬午軍乱・甲申事変

①江戸時代には日本と朝鮮(李氏朝鮮)は対馬藩(宗氏)を間において交易をしていた。幕末の外圧や政変によって交流は途絶えがちになっていた。この際明治新政府は上位の立場からの関係を要求したので朝鮮側が国交を拒否した。

②このような状況から武力に訴えても朝鮮との関係を樹立しようとする征韓論が出てきた。征韓論を唱えた西郷隆盛は失脚した。

③1875年に日本の軍艦雲揚号が朝鮮の都漢城に近い江華島近海で
砲撃を受けたので武力衝突事件に発展した。

④主に高宗(コジョン/26代目)の王妃である閔妃(みんぴ)が実権を握っていた。開国反対派の大院君(テウォングン/高宗の父)を抑えて1876年2月に日朝修好条規を締結して開国に同意した。

⑤釜山・仁川・元山の3港を開いたが日本の領事裁判権や関税免除を認めさせる不平等条約であった。

⑥1882年7月には朝鮮で壬午軍乱が勃発した。閔妃の指導で朝鮮の軍隊の近代化がはかられたが旧軍隊への対応が悪くなりそれに不満を持った兵士たちが決起した。

⑦大院君はこの騒乱を利用して閔妃を追放した。鎖国政策に戻すために日本の公使館を襲撃させ権力の奪回に成功した。

⑧追放された閔妃は清国にサポートを要請したため清国は介入した。大院君を幽閉し閔妃を復権させるとともに軍隊を漢城に駐留させた。この時に日本は済物浦条約を結び公使館に警備兵を置く権利などを得た。

⑨その後、閔妃が清に接近したので日本は独立党といわれる朝鮮内の親日改革派の金玉均(キム・オッキュン)との関係を深めた。

⑩1884年12月に清がフランスとの戦争で混乱したのに乗じて閔妃政権に対するクーデターを起こした。これが甲申事変である。しかし清軍が閔妃をサポートしたので失敗した。

⑪日本と清は天津条約を結び朝鮮から軍を引く事を約束した。このため日本の朝鮮と清に対する国民感情は悪化した。この頃福沢諭吉が発表したのが『脱亜論』(1885年)であった。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社


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