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歴史語呂合わせの弊害

歴史語呂合わせは起こった出来事と
年数を合わせて意味づけして覚えるものだ。
暗記方法としては特に問題はない。

①鳴くようぐいす平安京
794年 平安時代。山背国を山城国と改め、平安京と名づける。

②いい国 作ろう鎌倉幕府
1192年 源頼朝が征夷大将軍になる。

ただ問題は語呂合わせを覚えてテストで解答できればいいというものではない。

テストで点数をとるだけではなく歴史素養の構築こそ要なのだ。

平安京に遷都してから平安時代が始まる。源頼朝が征夷大将軍になってから鎌倉時代が始まる。というのはテスト的に間違いではないが、大事なのはこの出来事の前後の背景とどういう構造変遷なのかという事だ。

①平安京の前身の平城京(奈良県大和郡山市)は
中国王朝唐の首都長安(陝西省西安市)をモデルとして建造されている。

781年(天応元年)に光仁天皇(49代目)の継承者となったのが桓武天皇(50代目)であった。桓武は784年(延暦3年)に平城京から山背国の乙訓郡長岡村の長岡京(京都市向日市・長岡京市・大山崎町・西京区・南区・伏見区)へ遷都した。

平城京は立地的に水不足であり水上と陸上の交通の便に優れている長岡の地が新しい都に適していると判断された。また天武系と関係の深い豪族と距離を置きたかった。

長岡京の遷都は強い反発にあって長岡京の造営責任者の藤原種継が矢で殺害されて、犯人として早良親王(桓武の同母弟)が疑われて皇太子の地位をはく奪され淡路国(兵庫県の淡路島)に流刑となり移送中に亡くなった。

長岡京は飢饉や疫病が起こり桓武天皇の周りの人々は命を落とした。早良親王の祟りとされ水上交通の便の良さがかえって河川の氾濫が起こり都の造営は進まなかった。

桓武天皇は和気清麻呂に助言をもらった。長岡京の北にある葛野郡宇多村(京都府京都市)に新しい都を造営するというものだった。

そうして794年(延暦13年)に桓武天皇は遷都を行った。山背国は山城国となり平安京という都の名が詔で発表された。

長岡京の不幸を忘れて「平安で安らかな都であってほしい」という思いがあった。

平安京は京都の三つの山である東山、北山、西山に囲まれた京都盆地の北部に位置した。水陸の交通の便が良い地であったのも大きかった。また古代中国由来の四神相応の土地だった事も理由と云われている。

以上の事から平城京や長岡京あっての平安京である事、水不足が不便である事、中国思想が根底にある事、怨霊信奉は根強かった事などがわかるであろう。歴史語呂合わせだけでは背景まで掴めない。

この平安京は鎌倉時代以降に武家社会が君臨した後も1869年(明治2年)に東京遷都するまで天皇のいる京都として認識されていた。しかしそれを桓武天皇が予期しているわけがない。桓武天皇たちは必死になり長岡京から平安京に遷都しただけと云える。

②鎌倉幕府設立に関しては1192年樹立で間違いではない。しかしこれだけでは背景や構造変遷がつかめない。

幕府とは本来、軍の本陣を指す事である。単に頼朝が鎌倉に拠点を置くようになった時期ならば治承・寿永の乱が始まった1180年(治承4年)と云える。

1183年(寿永2年)の寿永二年十月宣旨で頼朝は東国の警察権と徴税権を得た。こうして朝廷から半ば独立したと云える。1184年(元暦元年)には文書管理を行う公文所、事務処理を行う問注所などが鎌倉で設置された。ここで政務機関がつくられた。

1185年(文治元年)に頼朝が義経を探して捕まえるために各地で惣追捕使や国地頭(守護)や地頭を設置する権利を得た。こうして西国を含めた各地の警察権、徴税権、地方統治の実務を担う在庁官人の管理権を獲得した。この年に平家は滅亡している。

ここで幕府の組織と権限がほぼ確立したとも云える。ただ鎌倉幕府の成立後も朝廷は律令制に基づいた政務は行っていた。鎌倉幕府は朝廷の下にあって半ば独立した関東武士の地方政庁であった。そして頼朝が「鎌倉幕府の成立」の宣言は行っていない。

1189年(文治5年)には衣川の戦いで源義経は討伐され奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡した。こうして源氏を阻む勢力はほぼいなくなった。

ゆえに1180年~1192年に平清盛・宗盛勢力や源氏の内紛や奥州藤原氏との攻防のなかで東国の武士団をまとめた鎌倉幕府はつくられた。朝廷とのせめぎ合いもあるが、頼朝は逐一ネゴシエートしていた。そのなかで源頼朝が征夷大将軍になったという話だ。

ちなみに平清盛は福原京に遷都をしたがうまくいかなかった。頼朝勢力は平家や朝廷と逆方向に形成していったがゆえに関東中心勢力になったとも云えるだろう。

■参考文献
『一冊でわかる平安時代』大石学 河出書房新社

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