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【歴史概要99】スパルタ・アテネ

①スパルタはバルカン半島の西部であるラコニア地方にあった。
穀物生産に適した地域であったので自給自足が可能となった。

②スパルタの支配階級は貴族(スパルティアタイ)と呼ばれた。

政治的立場は平等でクレーロスという土地が平等に与えられていた。奴隷(ヘロット)が耕作をしていた。

奴隷は監視された生活をしていた。

③自給自足が可能だったので全体として閉鎖的なポリスであった。奴隷はスパルタ内で補充された。

奴隷は結婚が許されたが子どもは同じく奴隷となった。貴族は奴隷の反乱は容赦なく鎮圧した。

④スパルタ教育とは子供たちを健全なスパルティアタイに育てるために小さい時から集団生活を強制し軍事訓練を行った。

これがリュクルゴス体制である。試練に耐え抜いていった者が優れたスパルタ市民であった。

⑤アテネはスパルタとは違い自由主義解放国家であった。無論アテネでも市民は戦士である。

女性・子どもの権利はなく奴隷が下支えしている。奴隷は購買奴隷が中心で家内労働が中心であった。

⑥平民と貴族という身分制度があった。

最初は有産貴族しか武装できなかったが、後に平民の中で富を蓄えて武装できる者が出てきた。軽武装が一般化され重装歩兵による密集戦術が可能となっていった。

⑦有産平民が戦闘に参加するようになり参政権を要求する声が高まっていった。身分闘争が展開されるようになった。BC7世紀末にドラコンがドラコンの成文法を明文化して貴族が解釈していた法が公正なものとなった。

⑧BC6世紀初頭にソロンが改革に着手する。当時問題であった市民の債務奴隷化を防ぐために身体を抵当にした借金を禁止した。また借財の帳消しという改革を行った。

⑨所有財産によって就く事のできる公職を区分した。これが財産政治ティモクラシーである。一定の評価はあったが貧民は民会に参加する権利を与えられないなどの問題があった。

⑩BC6世紀中ごろにペイシストラトスが不満平民の力を凝集して独裁権力を樹立した。これが僭主政である。農民への土地分配、新しい銀山開発によって国庫安定をはかった。

約30年はこの体制が維持された。しかし息子のヒッピアスが暴政を行ったためアテネ市民は彼を追放した。

⑪アテネ市民は独裁は危険だという認識共有を行った。BC508年に貴族であるクレイステネスはアテネ政治の抜本改革を行った。オストラキスモス(陶片追放)の制度を定めて僭主出現を防止した。

⑫独裁者になりそうな人物を陶器破片に書いて投票させ票が一定数になるとアテネから追放された。

部族制度の再編成を行い血縁関係から地縁的な30のグループ(デーモス)を組織して組み合わせた。

⑬これにより民主決定が可能な体制を形成した。

これにより古代民主政が完成した。ここからペルシア戦争に移行していく事になる。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社

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