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軒に吊るせば【てるてる坊主考note#36】


はじめに

 ここ最近ずっと、民俗学者・柳田国男(1875-1962)の「毛坊主考」を読んでいます。大正3~4年(1914-15)に発表された長編論考です。そのなかの「ネブタ流し」と題したある一章で、人形送りの行事が話題にのぼっています。具体的には虫送り・疫病神送り・雨乞い・雨風祭りといった行事です。
 柳田によれば、人形送りの行事の基盤にあるのは、もろもろの災厄の原因を悪霊のしわざと見なす発想。そうした悪霊を人形に託して村境へ送り出したり、海や川に流し去ったりします。災厄の原因を背負って外の世界へと祀り棄てられる人形は、いわば〈犠牲の人形〉です。
そうして柳田は自らの見聞、あるいは近世(江戸時代)の文献資料をもとに、人形を用いた虫送り・疫病神送り・雨風祭りの事例を列挙しています(★表1参照)。

 ただ、柳田が例示している人形送りの行事に目を凝らしてみると、目立つのは〈犠牲の人形〉というよりは〈防御の人形〉とでもいうべき姿。人形たちはいずれも、村境や家の戸口に立てられています。内と外の境界と意識される場所に立ち、外から来る悪霊を追い払う守護神のような役割を果たしているようです(★詳しくは「てり雛からてるてる坊主へ【てるてる坊主考note#35】」参照)。

 このように、「毛坊主考」に例示されている人形送りの行事をとおして、次のような2つの図式を確認することができました。〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という人形の役割の転換、それに伴う〈外の世界へ祀り棄てる〉→〈境界に設置する〉という祈願方法の変化です(★表2参照)。

 柳田は次のようにも述べています。「近世の田舎では風雨の害をはらうために人形を送る例もあった。照々坊主てるてるぼうずの風習もまたこれである」[柳田1990:452頁]。てるてる坊主の風習は「近世の田舎」でよく見られた雨風祭りの名残であり、やはり人形送りの一種だというのです。
 さらに柳田は、お盆や七夕についても、もともとは人形送りと同じような災厄除けの行事であったといいます(★詳しくは「人形送りのなかのてるてる坊主【てるてる坊主考note#34】」参照)。

 本稿では、災厄除けとしての七夕に注目してみましょう。柳田は七夕に人形を作る事例についても列挙しています。詳しくは後述しますが前もって明かしてしまうと、七夕人形は家の軒や戸口、あるいは庭木に吊るされました。〈家の周囲〉という設置場所、そして〈吊るす〉という設置方法。これらの特徴は、普段わたしたちが目にするてるてる坊主とも共通しています。

1、災厄除けとしての七夕

 七夕の行事をめぐって柳田は、「よく見るとこの星祭には天上の恋人に対する同情のほかに、道家どうけの祭星法にあるような攘災じょうさいの意味が加わっている」と指摘しています[柳田1990:454頁]。七夕は織姫と彦星を祀る星祭りであるとともに「攘災」、すなわち災厄除けの意味も込められた行事であるというのです。
 七夕とは災厄除けであるという、その根拠として柳田が挙げているのが、竹を立てること。昨今では、短冊に願いごとを書いて竹に吊るします。しかしながら、本来は竹2本を立てて注連縄を付けたそうです。縄にぶら下げるのは短冊ではなく、字を書いていない切り紙。いまでも、家を建てる前の地鎮祭では、竹4本を立てて注連縄をめぐらせた、よく似た光景を目にすることができます。
 災厄除けとしての七夕行事においては、切り紙ではなく人形もしばしば吊るしたようです。柳田は文献資料のなかから、人形が登場する七夕の事例を4つ拾い上げて紹介しています(★表3参照)。

【事例❶】 18世紀初めごろの松本(現在の長野県松本市)にて。街なかでは道を横切るようにして、家々の軒のあいだに縄を張りました。木製の人形をいくつも作って、それに紙製の衣を着せ、軒に張り渡した縄に吊り下げました。
【事例❷】 長野(現在の長野市)にて。19世紀なかばの書物のなかで「昔」のこととして紹介されています。鎧兜よろいかぶとを着用した五月人形のようなものを作り、7月6日と7日の2日間にわたって、その人形をごちそうなどでもてなしました。
【事例❸】 19世紀なかばの栃尾(現在の新潟県長岡市)にて。7月1日に藁人形を作り、槍・駕籠・挟箱などの模型も取りそろえます。庭木に張った縄にそれらを吊るし、大名行列のように飾ったといいます。縄を張る庭木は「宅の左右に立った木」とあるので、玄関前を横断するように、左右の木に吊るしたのでしょう。そして、月末に近い7月27日にそれらを川まで持っていって流しました。
【事例❹】 20世紀初めごろの里垣(現在の山梨県甲府市)にて。農家では木を丸く削って人形を作り、赤い紙の衣を着せます。その首に紙縒りを付けて戸口に吊り下げることで、七夕さまへの捧げものとしました。盗人除けの意味もあるそうです。
 
 18世紀初め(❶)から19世紀半ば(❷❸)を経て、20世紀初め(❹)まで、時代的にはバラつきがありますが、4例いずれも甲信越地方での光景です。
 七夕人形の設置場所と設置方法に眼を凝らしてみましょう。4例のうち、設置する場所や方法が明らかなのは❷を除いた3例。家々の軒から道を横切るように掛けた縄(❶)や、庭の左右に立つ木に張った縄(❸)に吊るされたり、首に紙縒りを付けて戸口に吊るされたり(❹)しています。
 設置場所として軒・戸口・庭木といった〈家の周囲〉が択ばれている点、および、〈吊るす〉という設置方法がとられている点を、ここで確認しておきましょう。

2、菅江真澄が描いた七夕人形

 人形を用いた七夕行事をめぐっては、近世後期の旅人・菅江真澄(1754-1829)も着目しています。菅江は18世紀後半に信州を旅した際、目にした七夕の光景を2例、スケッチ付きで記録にのこしています。
【事例①】 天明3年(1783)の本洗馬もとせば(現在の長野県塩尻市)にて。紀行文「伊那の中路」の7月7日の記事に次のように記されています[内田・宮本1971:35頁]。民俗学者の内田武志(1909-80)と宮本常一(1907-81)による現代語訳もカッコ内に併記します[菅江ほか1965:19頁]。

あくるを待て、うなひら、ちいさきかたしろのかしらに糸つけて軒にひきはへ……
(夜の明けるのを待って、子供たちは小さい人形の頭に糸をつけて軒に引き渡し……)
 

 スケッチに目を向けてみましょう。吊るされた人形の下には、床に置かれた台の上に供え物が並んでいます。酒の入った銚子や餅などが見えます。部屋の向こう側の縁側の外にも、草に囲まれて台が設えてあります。こちらの台の上には水を張った桶が置かれており、柄杓が添えられているようです。
 スケッチには詞書きがあり、「六日より軒はに 方なる木にて めおのかたしろを造りて 糸に曳はえてけり」と記されています。七夕前日の6日から、四角い木を材料として女と男の人形を作り、軒端に引き渡した糸に吊るすといいます。人形を軒に吊るすのは、本文では7日の明け方とされていましたが、詞書きでは6日とされており、齟齬が見られます。
 
【事例②】 翌天明4年(1784)の松本にて。紀行文「来目路の橋」のやはり7月7日の記事に、次のような記述が見られます[内田・宮本1971:159頁]。現代語訳も併記します[菅江ほか1965:56頁]。

女童、竹のさえだに糸引はへて、さゝやかなる男女のかたしろをつくりて、いくらともなうかけならべたるに、秋風、さと吹なびかいてけり。
(女童が竹の小枝に糸を引きわたして、小さい男女の人形かたしろをつくり、いくつともなくかけならべたものを、秋風がさっと吹きなびかしていた。)

 こちらのスケッチにも目を向けてみましょう。竹の枝に糸が張り渡され人形が吊るされています。竹は地面から生えているのではなく、どこかから伐られてきて、板塀のそばの杭に括りつけられたようです。板塀の向こう側のことなので、供え物の有無は不明です。
 
 菅江が紹介している七夕人形の設置場所と設置方法にも目を凝らしてみましょう。2例とも糸に吊るされています。糸は庭に面した柱と障子のあいだ(①)、あるいは、庭に立てた竹(②)に引き渡してあります。設置場所として軒や庭木といった〈家の周囲〉が択ばれている点、および、〈吊るす〉という設置方法がとられている点は、柳田が紹介していた先述の3例と共通です。

3、〈防御の人形〉としての七夕人形

 七夕人形の位置づけをめぐって、ここで注目しておきたいのが、先述のように柳田が参照していた『於路加於比』の記述(表3の❶)。
 『於路加於比』は戯作者・柳亭種彦(1806-68)による随筆です。作品の成立時期は不詳ですが、作者の生没年から推測すると19世紀半ばでしょう。『於路加於比』巻之二の「牽牛織女二星の神形」と題した節で、松本の七夕人形について触れています。
 ただし柳田の説明にもあるとおり、『於路加於比』の記述は『塩尻』からの引用です。引用元の『塩尻』とは国学者・天野信景さだかげ(1663-1733)による随筆。七夕人形についての記述は元禄14年(1701)に著されています。
 18世紀初頭の当時、先述したように、松本では家々の軒のあいだに縄を張り渡し、七夕人形をいくつも吊り下げたといいます。『於路加於比』の作者・柳亭種彦はこうした風習に深い関心を寄せ、『塩尻』から引用して紹介しているのです。そのうえで柳亭は、松本の七夕人形をめぐる自説を展開しています。柳亭の見解にしばらく耳を傾けてみましょう[日本随筆大成編輯部1929:641頁]。

こは諸国の村落にて正月道祖神を祭るとて、街道の並木に件の如く注連引はへ、大なる簺を釣下げ、また夏は疫神祭に蘇民将来の札、麦藁にて作りたる蛇形などと、同じさまなるべくおもはるゝ……(以下略)

 日本列島各地で、正月の道祖神の祭りにおいては、やはり道を横切るように注連縄を張り、大きなサイコロを吊り下げる。あるいは、夏の疫病神送りの祭りにおいても、蘇民将来の札や藁蛇などを吊り下げる。松本で七夕に人形を作って縄に吊るすのは、これと同じ風習のようにも思われる、と柳亭は記しています。
 ここで柳亭が例として挙げているのは道切りの風習。集落の出入り口に注連縄を張って、サイコロやお札、藁蛇などを吊るすことで、災厄が入ってくるのを防ごうとする、災厄除けの行事です。
 縄に人形を吊るす松本の七夕行事も、一見すると、こうした道切りと同じような災厄除けの行事に見える、と柳亭は述べています。この場合、七夕人形は災厄を除ける〈防御の人形〉と位置づけることができるでしょう。

4、〈犠牲の人形〉としての七夕人形

 もとより、柳亭の見解には続きがあります。18世紀初頭の松本で見られた光景には、どうやら道切りとは違う意味が込められているようだ、として次のようにいうのです[日本随筆大成編輯部1929:642頁]。

其神形をあらはに外に出し釣おくは、簺蛇の類とはかはり……(中略)……六月(ママ)の形代と混じて、己々が雛形にはあらじか、雛遊の事など考あはすべし。

 神さまである人形を屋外に出して、さらすように吊るしておくのはなぜか。それは「簺蛇の類」とは違うようだといいます。「簺蛇の類」とは、先述したような災厄除けの道切りで吊るすサイコロや藁蛇のこと。
 それでは、松本の七夕人形は何者なのか。柳亭は「六月(ママ)の形代と混じて、己々が雛形にはあらじか」と述べています。「六月」のあとの「□」に入る文字は不明ですが、おそらく「はらえ」でしょう。
 6月末の風習である夏越なごしの祓では、ヒトガタ(人形)でからだをなでて災厄を移し、それを川に流して無病息災を願います。つまり、六月祓で撫でものとして用いられるヒトガタと同じく、七夕人形も本来は災厄を託される形代だったのではないか、というのが柳亭の見立てです。
 形代は雛形とも呼ばれます。そのため柳亭は「雛遊の事など考あはすべし」、すなわち、雛遊びについてもここで一緒に考慮すべきだと述べています。雛というと、昨今では思い浮かぶのは豪華絢爛な雛飾り。しかしながら、雛人形もやはり、本来は災厄を託されて川へ流される形代でした。すなわち、七夕人形は六月祓のヒトガタや雛人形の原義と同じく、災厄を託される〈犠牲の人形〉だというのが柳亭の指摘です。
 柳亭の考察を整理しておきましょう。七夕人形は一見すると、道切りと同じような〈防御の人形〉のように見える。けれども、元をたどれば実は形代と同じような〈犠牲の人形〉だったはずだ、というのです。

6、〈川に流す〉から〈家の周囲に吊るす〉へ

 先述のように柳田は、七夕とは本来は災厄除けの行事であったといいます。そして、甲信越地方で見られた七夕人形の事例を4つ、文献資料から拾い上げて列挙しています。18世紀初めから20世紀初めにかけての事例です。
 そんな七夕人形を18世紀後半に実見していたのが菅江真澄。スケッチとともに事例を2つ紹介しています。先述のように、菅江は七夕人形のことを常に「かたしろ」、すなわち形代と表現していました。そこには、災厄を託して祀り棄てるものという意味合いが強く感じられます。すなわち、柳亭種彦と同じく、七夕人形を〈犠牲の人形〉として位置づける見かたです。
 
 ここで思い起こしたいのが、本稿の冒頭で掲げた人形送りの行事をめぐる図式です。虫送り・疫病神送り・雨風祭りといった行事において、人形は本来、災厄を託され祀り棄てられる存在。そのため、村の外へと送り出されたり、海や川に流されたりしていました。そうした〈犠牲の人形〉が〈防御の人形〉という性格を帯びると、村境や家の戸口などに立てられます。そして、外から来る悪霊を呪力で追い払う役割を期待されるようになります(★表2参照)。

 すなわち、人形の役割が〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉と転換するのに伴って、祈願の方法にも〈外の世界へ祀り棄てる〉→〈境界に設置する〉という変化が生じました。具体的には、人形の設置場所や設置方法が、〈村境へ送り出す・海や川に流し去る〉→〈村境や家の戸口に立てる〉と変化しました。
 こうした人形送りの行事をめぐる変化の図式を、七夕人形にも当てはめることができるでしょうか。本稿で紹介したのは、18世紀初めから20世紀初めにかけての七夕人形の事例。当時、すでに七夕人形は軒先(❶①)や戸口(❹)や庭木(②❸)に吊るされています(★表4参照)。

 家の周囲に吊るされた人形たちは、どこか外からやってくる災厄を防ぎ、家々を守護してくれているように見えます。なかには、盗人除けの意味が込められている例(❹)もあります。そこに窺えるのはもはや〈犠牲の人形〉ではなく〈防御の人形〉としての性格です。
 そうしたなかで注目したいのは事例❸。唯一、七夕人形を川に流すということについて触れています。川に流すのは、おそらく、かつて〈犠牲の人形〉だったころの名残なのでしょう。七夕人形の役割が〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉と転換するのに伴って、設置場所や設置方法も〈川に流す〉→〈家の周囲に吊るす〉と変化したようです。
 なお、川に流すことに触れた事例❸の詳細に目を凝らすと、7月1日に人形を作って庭木に吊るしておき、七夕が終わってしばらくした27日に川へ流すといいます。しばらく吊るしたあとで流すという作法は、ひょっとすると、〈川に流す〉→〈家の周囲に吊るす〉という変化の過渡期に見られた光景なのかもしれません。すなわち、〈川に流す〉→〈しばらく吊るしておいてから川に流す〉→〈家の周囲に吊るす〉という図式です。

おわりに

 虫送り・疫病神送り・雨風祭りなどの人形送りと、本稿で紹介した七夕の行事をめぐっては、共通する図式が想定されました。〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という人形の役割の転換、および、〈外の世界へ祀り棄てる〉→〈境界に設置する〉という祈願方法の変化です。
 祈願方法のなかでも、本稿でとりわけ注目したのは人形を設置する場所と方法。虫送り・疫病神送り・雨風祭りなどの人形送りの場合には、〈村境へ送り出す・海や川に流し去る〉→〈村境や家の戸口に立てる〉という変化が見られました。いっぽう、七夕人形の場合に見られたのは、〈川に流す〉→〈家の周囲に吊るす〉という変化です(★表5参照)。

 七夕人形をめぐって、こうした見通しを得られたところで、てるてる坊主との比較を試みてみましょう。〈防御の人形〉としての七夕人形に見られた〈家の周囲に吊るす〉という点は、てるてる坊主の特徴でもあります。昨今、てるてる坊主を吊るす場所としては、言うまでもなく、軒下や窓辺など家の外縁部分が多く択ばれています。ときには、庭木に吊るされている姿も見かけます(★図3参照)。

 それでは、〈犠牲の人形〉としての七夕人形に見られた〈川に流す〉という作法はどうでしょうか。てるてる坊主を川に流すという作法は、昨今では見かけなくなったものの、かつて昭和の初めごろまではしばしばおこなわれていました。
 ほとんどの場合は、願いがかなって晴れた場合のお礼として、すなわち、まじないの結果が出てから川に流しました。先述した七夕人形の事例❸と同じ、〈しばらく吊るしておいてから川に流す〉という作法です。さらには、「晴れますように」と願いを掛ける時点で、吊るすのではなくすぐに流すケースも、ごくまれにではあれ確認できます(★詳しくは「「てるてる坊主=形代」説・再考【てるてる坊主考note#27】」参照)。

 てるてる坊主の設置場所や設置方法について、想定される変遷を整理しておきましょう。昨今では〈家の周囲に吊るす〉のがもっぱらですが、かつては〈しばらく吊るしておいてから川に流す〉のが主流だった時代が確かにありました。さらに以前には、願掛けの時点で〈川に流す〉のが作法だったようです。
 てるてる坊主をめぐっても七夕人形と同様に、〈川に流す〉→〈しばらく吊るしておいてから川に流す〉→〈家の周囲に吊るす〉という変遷の図式が推測されます。すなわち、てるてる坊主の風習も〈外の世界へ祀り棄てる〉→〈境界に設置する〉という祈願方法の変化を経ているのでしょう。ひいては、てるてる坊主にも〈犠牲の人形〉→〈防御の人形〉という役割の変化があったはずです(★表6参照)。

 『於路加於比』(表3の❶)の作者・柳亭種彦は七夕人形をめぐって、それを形代すなわち〈犠牲の人形〉と捉えるべきだと指摘していました。その際、「形代と混じて、己々が雛形にはあらじか、雛遊の事など考あはすべし」と述べています。先述のように、雛人形が本来は災厄を託されて川に流される形代だったことを念頭に置いた指摘です。
 実は、てるてる坊主はかつて、「てり雛」とも呼ばれていた時代があります。近世(江戸時代)から明治期にかけてのことです。そうした呼び名は、てるてる坊主がかつて川に流される〈犠牲の人形〉だったころの、かすかな痕跡なのかもしれません。
 
 最後にもうひとつ注意しておきたいのは、意識される方向の違い。虫送り・疫病神送り・雨風祭りなどの場合、災厄に対する〈防御の人形〉は村境や家の戸口に立てられました。そこは水平方向(横方向)を意識した、内と外の境界です。
 いっぽう、七夕人形やてるてる坊主も、家の周辺部分(軒・戸口・庭木)に設置される点では、屋内か屋外かという水平方向(横方向)の境界がやはり意識されています。加えて気になるのが、七夕人形やてるてる坊主は必ず吊るされるという点。天の星を祀る七夕人形や天気のコントロールを図るてるてる坊主の場合、視線を高く上げて、垂直方向(縦方向)も意識されます。そのため、天と地のあいだで宙ぶらりんの状態におかれるのでしょう。
 
 
【参考文献】(編著者名等の五十音順)
・内田武志・宮本常一〔編〕『菅江真澄全集』第1巻、未来社、1971年
・菅江真澄〔著〕内田武志・宮本常一〔編訳〕『菅江真澄遊覧記』1(東洋文庫54)、平凡社、1965年
・菅江真澄〔著〕内田ハチ〔編〕『菅江真澄民俗図絵』上巻、岩崎美術社、1989年
・日本随筆大成編輯部〔編〕『日本随筆大成』第2期第10巻、日本随筆大成刊行会、1929年
・松井由谷『麗新画帖』下、本田書店、1900年
・柳田国男『柳田国男全集』11(ちくま文庫)、筑摩書房、1990年
 
【参照したWEBページ】(図1・図2関連)
・信州大学附属図書館「近世日本山岳関係データベース」
https://www-moaej.shinshu-u.ac.jp/
 

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