夕べ吊るしたてるてる坊主【てるてるmemo#10】
1、気がかりなのは「あした」
「てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ」と願いを込めて吊るされるてるてる坊主。中国にも同じように、晴天を祈願して軒や門に吊るす掃晴娘という人形が伝えられてきたそうです。
中国の掃晴娘は多くの場合、長雨が降り続く際に雨が止むように、現状打破の願いを込めて吊るされるようです。
いっぽう、日本のてるてる坊主はどうでしょうか。掃晴娘と同じく長雨の際に現状打破の願いが込められることもありますが、それよりも、特定の日の晴天を願って事前に作られるケースが多く見られます。とりわけ、翌日の晴天に狙いを絞って「あした天気に」と願いを込められる場面が目立ちます。
いわば、中国の掃晴娘は対症療法的であり、即効性に重きが置かれています。それに対して、日本のてるてる坊主には予防の意味合いが強く窺われます。現状の天気うんぬんではなく、大事なのはあくまでも「あした」の天気なのです(★掃晴娘について詳しくは「掃晴娘と比べてみれば【てるてる坊主考note#13】」参照)。
2、「あした」を気にする「夕べ」
「あした」とはいつでしょうか。言うまでもなく、それは翌日(明日)のこと。
ただし、「あした」には「明日」だけでなく古くは「朝」という漢字も充てられます。もともと「あした」とは翌日に限らず、「夜が明けて明るくなった頃。あさ。古くは、夜の終わった時をいう意識が強い」といいます。
同じ「朝」という字でも、「あさ」と読めば「明るい時間帯の始まり」という意識が強く、いっぽう、「あした」と読めば「暗い時間帯の終わり」という意識が強かったともいいます。
そして、「暗い時間帯の終わり」である「朝」に対する、「暗い時間帯の始まり」が「夕べ」。すなわち夕方です。
たとえば、運動会や遠足の前日、子どもたちが「あした」の天気を案じつつ、学校から帰って自宅でてるてる坊主を作る時間帯が、まさに「夕べ」の時間帯にあたるでしょうか。「あした天気になあれ」と靴を飛ばして占う光景も、やはり「夕べ」の時間帯が似合います。
てるてる坊主のまじないにしろ、靴飛ばしの占いにしろ、ともに翌朝の天気を前日の夕方に気にしています。言い換えれば、「暗い時間帯」(夜)を挟んで、その始まり(「夕べ」)にその終わり(「あした」)の天気を気にしているという構図です。
3、「時間の裂けめに覗ける境界」
「あした」へと続く「暗い時間帯」(夜)の始まりに位置する「夕べ」。それは、「黄昏時」とか「逢魔が時」とも呼ばれ、妖怪や魔物に逢いやすい時間帯でもあります。
柳田国男(民俗学者。1875-1962)がまとめて明治43年(1910)に発表した説話集『遠野物語』。その分析を試みた赤坂憲雄(民俗学者。1953-)は論考のなかで、「昼/夜のはざまの境の時間である黄昏には、あらゆる景観が一変する」として、次のように述べています(読みやすいように引用者が改行を加えた。以下同じ)[赤坂1998:139-140頁]。
昼下がりにはなんの変哲もなくそこにある、門の口・軒下・洞前・庭の樹木。このなかで、軒下や庭の樹木などは、いまもむかしもてるてる坊主が好んで吊るされる場所です。また、門の口や洞前は聞きなれない名前ですが、東北地方に多い曲り家において、軒下と同じく家屋の外周部分を指します。
日常生活の舞台である屋敷の周囲や周辺にあって、日中は「ごく当たり前の日常的な貌」をしていた場所。そこが、「時間の裂けめ」すなわち昼と夜の境である「夕べ」になると、「もうひとつの世界への通底口」「異界や他界への入り口=境界」であると意識されるようになる、そう、赤坂は指摘しています。時間の境界という場面設定によって、空間の境界という舞台が浮き彫りにされるような感覚でしょうか。
「暗い時間帯」(夜)を控えた「夕べ」のてるてる坊主は、時間的にも空間的にも境界に位置すると言えそうです。
加えて、空間的には縦方向の視座も考慮に入れる必要がありそうです。宙ぶらりんに吊るされた状態のてるてる坊主は、「天/地」のあいだに位置しています。そうした姿からは、「天/人」のあいだにあって、両者を媒介するてるてる坊主の役割がイメージされます。
4、「夕べ」から始まる1日
1日の始まりはいつでしょうか。言うまでもなく、時計のうえでは午前0時です。ただ、空が明るくなって太陽が昇るとき、あるいは、朝めざめたときから1日が始まるという感覚もあるのではないでしょうか。
そうしたなか、「我々日本人の昔の一日」は「今日の午後六時頃、いはゆる夕日のくだちから始まつて居た」、そう指摘しているのが、先にも触れた柳田国男。「くだち」とは、日が傾くころのことをいいます。
柳田は昭和17年(1942)発行の『日本の祭』のなかで、以下のような例を示しています[柳田1942:49頁]。
地域によっては一昨日の晩のことを「きのふのばん」と表現する点、および、年中行事や祭りには夕刻が1日のはじまりだったかつての名残が見られる点を柳田は指摘しています。
一昨日の晩を「きのふのばん」と表現する点について、柳田に先んじて、いち早く着目していたのが博物学者・南方熊楠(1867-1941)。柳田とも親交が深かった博覧強記の人物です。南方は昭和5年(1930)に「往古通用日の初め」と題した短文を発表しています。
南方によれば、昨夜のことを「ヨンベ(ユウベ)」という点は、京阪地域や紀州の和歌山でも田辺地方でも変わらない。しかしながら一昨夜については、京阪地域や和歌山で「オトツイ(オトゝイ)ノバン」というのに対し、田辺地方では「キニヨオノバン(昨日の晩)」という人が多いそうです。
南方自身は和歌山出身、妻が田辺出身でした。一昨夜のことを「昨日の晩」と呼ぶのはおかしなことで、ほかの地域の人と話す際に混乱が生じて不便だろう。そう、南方は妻を諭したものの、「叱正しても一向直らぬ」と嘆いています。
一昨夜を「昨日の晩」と呼ぶのと似た事例を、南方は平安時代の『今昔物語』に見出しています。『今昔物語』のなかには、昨夜のことを「今夜」と呼んでいる例が3か所ほど見られるというのです。
南方がすごいのは、ここからさらに世界各国の暦法にまで視野をぐんぐんと広げていくところ。探索の結果、18世紀末の時点で「トルコ其他回教諸国」では「一汎に、日没を一日の初とする習ひありと判つた」、また、「伊太利やボヘミアでも左様にすると知た」と記しています[南方1930:548頁]。
これら南方の指摘と先述した柳田の指摘を併せると、日没を1日の始まりとする感覚は古今東西に散見されたことがわかります。
そうした感覚のもとでは、日没のころ(「夕べ」)に吊るされるてるてる坊主は、1日が始まるに当たっての願掛けと位置づけられるでしょう。はたして、てるてる坊主の効き目はあるのかどうか、答えが判明するのは「暗い時間帯」(夜)の終わる「あした」のことです。
参考文献
・赤坂憲雄『遠野/物語考』、筑摩書房、1998年〈初版は宝島社、1994年。初出は「物語の境界/境界の物語——軒・道ちがえ・河原・峠のある風景」(赤坂憲雄〔編〕『方法としての境界』(叢書・史層を掘る 第Ⅰ巻)、新曜社、1992年)〉
・南方熊楠「往古通用日の初め」(『民俗学』2(9)、民俗学会、1930年)
・柳田国男『日本の祭』、弘文堂、1942年
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