続・昭和ヒトケタのころのてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#25】
はじめに
てるてる坊主研究所で収集してきたてるてる坊主が登場する資料のうち、昭和ヒトケタ(昭和元~9年=1926-34)の資料は年代順に以下の6点。
このうち、前三者について、かつて検討を加えました(★詳しくは「昭和ヒトケタのころのてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#24】」参照)。
引き続き、本稿では残る3例についてご紹介します。⑥の『小学国語読本』はかつて尋常小学校で国語の授業に用いられた教科書です。のちに、この教科書の解説書として『小学国語読本綜合研究』が編まれました。
同書の発行は昭和13年(1938)。本稿の対象年代からは少し遅れるのですが、同書は『小学国語読本』と切っても切れない関係にあるので、本稿の最後で『小学国語読本』に引き続くかたちで取り上げることとします。
④、『北安曇郡郷土誌稿』第4輯(1932年)
『北安曇郡郷土誌稿』は信濃教育会北安曇部会が編んだ報告書のシリーズで、昭和5~12年(1930-37)に8冊が刊行されました。長野県北安曇郡の地理や歴史、社会などについて幅広く報告が寄せられています。
その第4輯が「俗信俚諺編」で昭和7年(1932)に発行されました。第12章「まじなひ・祈願・呪」のなかに次のような風習が記されています(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[信濃教育会北安曇部会1932:192頁]。
呼び名は「照る〳〵坊主」。雨の日に作られるそうです。その姿かたちや設置場所、設置方法などはすべて不明です。特徴的なのは、雨が止んで晴れるよう祈る際に叩くという点。
てるてる坊主を叩くというのはめずらしい事例ですが、同じ長野県内から明治期の報告があります。『北安曇郡郷土誌稿』より四半世紀ほど前、明治39年(1906)発行の『風俗画報』(346号)に掲載されている事例です。
賀陽生(佐藤賀陽。生没年不詳)が信濃(長野県)の子どもたちの遊びを集めて報告した「信濃子供遊」によれば、「掃晴娘」を「ありふれたる樹木に縛《しば》り|付」、「手頃の棒を携へ……之を打擲する」といいます。打擲とはぶったり殴ったりすること。
打擲する際の唱え文句があり、「明日天気晴るれば神酒を供ふれど、雨天なれば川へ流すが、合点か、どうぢや〳〵」と繰り返しながら責め立てるそうです(★詳しくは「続・明治期のてるてる坊主事例(ノンフィクション編)【てるてる坊主考note#22】」参照)。
⑤、田中ナナ『金の風車』(1933年)
『金の風車』は昭和8年(1933)に発行された歌劇集。作者はのちの放送作家・田中ナナ(1925-)で、『金の風車』を発表した当時はまだ7~8歳というから驚きです。
『金の風車』に収められた歌劇の1つが「テルテル坊主」と題されています。登場するのは3人の子どもたちです。ある晴れた日の夕方、麦畑を歩いて家へ帰る途中の場面。明日もまた好天になるようにと願って、3人は家に帰ったらそれぞれにてるてる坊主を作る約束をします。
翌日の夜明け前、3人が作ったてるてる坊主たちは空間を超えて言葉を交わします(読みやすさを考慮して鍵カッコを付す)[田中1933:174-175頁]。
子どもたちは夜遅く、夜なべをする祖母や祖父に見守られながら、てるてる坊主を作ったようです。材料は綿と紙と木綿糸。
てるてる坊主の姿かたちはわかりませんが、おそらく、綿を紙で包んで丸い頭にしたのでしょう。そして、紙で作った着物を着せたものと思われます。
木綿糸は首の部分を括るか、あるいは、帯として巻くのに用いられたのでしょう。さらには、完成したてるてる坊主を吊り下げるのにも使われたはずです。
そうしてできあがったてるてる坊主に向かって、孝一さんは「テルチヤン〳〵 ああした天気にしておくれ」と、願いを込めて歌っています。「テルチヤン」という呼び名に親しみが感じられます。
このあと、てるてる坊主たちは子どもたちの願いに応えようと、何度もお日さまを呼びます。すると、お日さまがご機嫌に笑って登場し、当日は朝から晴天に恵まれます。3人の子どもたちは「テルテルさんありがとう」とてるてる坊主たちにお礼を言って、遊びに出かけたということです。
てるてる坊主は題名の「テルテル坊主」のほか、「テルチヤン」「テルテルさん」と親しげに呼ばれているのが印象的です。
なお、このお話には挿絵が付いています。描いたのは童画画家の初山滋(1897-1973)。絵には「テルテルボウズ」と題が付されており、3人の子どもたちが作ったてるてる坊主がデフォルメされた姿で描かれています(★図1参照)。
⑥、文部省『小学国語読本』巻2(1933年)
『小学国語読本』(尋常科用)は文部省(現在の文部科学省)により国定国語教科書(第4期)として12巻が作成されました。巻1の冒頭が「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」という言葉で始まるため、通称「サクラ読本」とも呼ばれています。巻1~4に限っては、それまでの教科書とは違って挿絵が色刷りである点が特徴です。
そのなかの巻2は1年生用で昭和8年(1933)の発行。昭和8~15年(1933-40)度の8年間にわたって日本全国の尋常小学校で使用されました。[海後1963:558、723頁]。
巻2には19の短いお話が収められています。その3話め「アシタ ハ エンソク」にてるてる坊主が登場します。お話は次のように始まります[文部省1933:7-9頁]。
呼び名は「テルテルバウズ」。遠足を明日に控えたある日のこと、昼を過ぎてから空もようが怪しくなってきました。雲行きが心配で仕方ない男の子(太郎さん)が、家でてるてる坊主を作ります。材料は紙。吊るす場所は庭の木の枝です。
挿絵を見ると、てるてる坊主は丸い頭で、顔に目鼻はなくのっぺらぼう(★図2-1と2-2参照)。着物を右前(右側が先)に着て、帯をしっかり締めています。着物の袖の袂は長く伸びています。太郎さんがてるてる坊主を吊るそうとしている木の種類はわかりませんが、実や葉の様子から察するにナンテン(南天)でしょうか。
てるてる坊主を吊るした太郎さんは、「テルテルバウズ、テルバウズ、アシタ 天キ ニ シテ オクレ」と歌っています。言うまでもなく、よく知られた童謡「てるてる坊主」の一節です。
この曲は当時から12年前、大正10年(1921)に雑誌『少女の友』(14巻6号)に発表されました。作詞は浅原鏡村(1895-1977)、作曲は中山晋平(1887-1952)という長野県出身の2人。発表当初は「てるてる坊主の歌」と題されていました。
お話には続きがあります。太郎さんの願いも空しく雨が降り出し、てるてる坊主はびしょぬれで、まるで泣いているよう。太郎さんも一緒になって泣き出しそうです。
そのあと少し経って、太郎さんはお母さんから郵便葉書を出してくるよう頼まれます。その道すがら、ある店から聞こえてきたラジオの天気予報が、思わぬ吉報をもたらします。「雨 ハ コンヤ ノ ウチ ニ ヤンデ、アシタ ハ、天キ ガ ヨクナリマセウ」。どうやら、太郎さんの願いをてるてる坊主がかなえてくれそうだ、という期待を抱かせつつ、お話は終わります。
なお、『小学国語読本』の発行から数年後、解説書として『小学国語読本綜合研究』が発行されています。本稿で対象とする昭和ヒトケタからは少し外れるのですが、『小学国語読本』との関わりが深いので、やや長くなるものの最後にご紹介します。
⑦、『小学国語読本綜合研究』巻2(1938年)
てるてる坊主が登場する、前掲した「アシタ ハ エンソク」を収めた『小学国語読本』(巻2)の解説書として編まれたのが、『小学国語読本綜合研究』(巻2)です。発行は『小学国語読本』(巻2)から5年遅れの昭和13年(1938)。
教科書に収められた各話をめぐって、「要説」「解釈」「指導」「参考」という4つの角度から解説が加えられています。本稿では詳しく触れる余裕はありませんが、てるてる坊主に言及のある部分に絞ってご紹介します。
1つめの「要説」の執筆者は文部官僚の井上赳(1889-1965)。『小学国語読本』編纂事業の中心人物です。教科書の題材としててるてる坊主を採用した理由について、井上は次のように記しています[国語研究学会1938:37頁]。
幼稚園から尋常小学校高学年ぐらいまでの年代の子どもたちにとって、男女を問わず、てるてる坊主が身近な風習としてよく根付いていたことがわかります。そして、てるてる坊主のようなものを自ら手作りする作業は、育ち盛りの子どもたちにとって意義のあることだと指摘されています。
2つめの「解釈」の執筆者は国語学者の玉井幸助(1882-1969)。てるてる坊主について以下のように説明しています[国語研究学会1938:40-41頁]。
『小学国語読本』(巻2)にあった「テルテルバウズ」のほかに、「てりてり坊主」とか「てるてる法師」という呼び名もあることが示されています。材料は紙。女性や小さな子どもが「晴れを祈る為に」「戯れに行ふもの」ものであるといいます。
吊るす場所は軒端や庭木。からだ全体に「てれ〳〵」と書き込むのが本来の作法だったものの、当時すでにそうした作法はだいぶ廃れていたようです。挿絵を見ても文字は書き込まれていません(★前掲した図2-1と2-2参照)。
3つめの「指導」の執筆者は国語教育者の佐藤末吉(1891-1971。別名を志波末吉)。『小学国語読本』(巻2)所収の「アシタ ハ エンソク」をめぐって、次のように記しています[国語研究学会1938:41-42頁]。
当時、尋常小学校1年生の国語の授業では、教材として『小学国語読本』の巻1と巻2が用いられていました。4月から巻1で学び始めると、巻2の3話め「アシタ ハ エンソク」を学ぶのは毎年10月初旬。それは、各校でちょうど秋の遠足があるころなので、子どもたちは教材の内容を実体験に近く感じられたことでしょう。
そして、できることならば実生活においても、遠足の前日に雨が降った場合には、晴天祈願のてるてる坊主を手作りさせてみること、そして、そのてるてる坊主を学校へ持ってこさせることが、児童への指導内容として明記されています。
4つめの「参考」の執筆者は民俗学者の柳田国男(1875-1962)。てるてる坊主に的を絞った解説が展開されています。
柳田はてるてる坊主のことを、『小学国語読本』と同じ「テルテルバウズ」のほか、「照々坊主」(2か所)とか「照々法師」(4か所)とも表記しています[国語研究学会1938:43-46頁]。
そして、「自分もさまで信じては居ない奇妙なまじなひ」とか「斯んな小さな又無害な、しかも若干の可笑味を含んだ俗信」などと形容しています。そうしたなかで注目したいのが、てるてる坊主の普及具合に触れた、以下のような指摘です[国語研究学会1938:44頁]。
柳田国男はてるてる坊主の風習について、実はかなり最近になって街場で始まったものであると想定しています。別の箇所では、「それも一部女流の間に限られ、太郎さんといふやうな男の児は、もとは自分たちと縁のあるしぐさとも思つて居なかつたのである」とも述べています[国語研究学会1938:44頁]。
つまり、てるてる坊主は街場の女性たちが最近になって始めた新しい風習だというのです。そのため、農村の子どもたちのほとんどはてるてる坊主を知らず、この教科書によって初めて知ることになるのではないかと柳田は危惧しています。そして、そもそも、てるてる坊主は教科書の題材として取り上げるほどには一般的ではないと指摘しているのです。
これに続く文章のなかで、柳田は民俗学的な視角からてるてる坊主の起源論を展開していきます。そちらはたいへんに根深いテーマなので、また別稿にて詳しく分析する機会をもてればと思います。
おわりに
本稿で紹介した事例のうち、世間に対する影響力が最も大きかったのは、言うまでもなく、教科書として使われた『小学国語読本』(⑥)でしょう。昨今のように民間の出版社がシェアを競っていたのではなく、当時は文部省が作成する国定教科書が全国の尋常小学校で一律に使われていました。
すなわち、先述のとおり昭和8~15年(1933-40)度に尋常小学校に入学した世代はみな、1年時の国語の授業で『小学国語読本』(巻2)を用いたのです。日本全国の子どもたちが、「アシタ ハ エンソク」の本文中や挿絵に登場するてるてる坊主にすべからく触れていたことがわかります。義務教育である尋常小学校の授業で学んだ(あるいは学ばされた)、教科書に出てきたてるてる坊主の残像は、子どもたちのその後のてるてる坊主像に多かれ少なかれ影響を与えたに違いありません。
先述のように、『小学国語読本』の解説書である『小学国語読本綜合研究』(⑦)の「指導」の項においては、「幸に、前日に雨が降り、照々坊主をつくつて晴を祈つたならば、それを学校へ持参させる」ことが明記されています[国語研究学会1938:42頁]。律儀な教師は解説書の指示どおりに、子どもたちにてるてる坊主を作らせたことでしょう。そうした指導が全国規模でおこなわれていたとするならば、てるてる坊主史上まれにみる一大ムーブメントです。
もとより、教科書の題材としててるてる坊主を登場させることをめぐり、懐疑的な意見も見られました。てるてる坊主の風習について、柳田国男は先述のように、街場の女性たちが最近になって始めた新しいものだという見かたをしています。そのため、「農村の少年少女は読本によつて、始めて知る者が甚だ多からう」と憂いつつ、「其様にまでして新たに教へてやるほどの、民間普通の行事とも実は言へないのである」と述べています[国語研究学会1938:44頁]。
いっぽう、『小学国語読本』の編纂を中心になって進めた井上赳は、尋常小学校1年生前後の年代の子どもたちにとって、てるてる坊主は身近な存在であると主張しています。教科書の題材としててるてる坊主を取り上げるのは的を射ているとする立場です。
当時、てるてる坊主は子どもたちにとってどれほど身近な存在だったのでしょうか。柳田が言うように、街場と農村を比べると、普及の度合いに違いがあったのでしょうか。目下のところ、詳しいことはわかりませんが、てるてる坊主の普及具合をめぐって、柳田国男と井上赳の主張には大きな隔たりが見られる点に本稿では留意しておきましょう。
最後に呼び名をめぐって。本稿で紹介した事例においては、「照る〳〵坊主」(④)「テルテル坊主」(⑤)「テルテルバウズ」(⑥)といった具合に表記はまちまちとはいえ、呼び名の前半部分は「てるてる」、後半部分は「坊主」である場合がほとんどでした。
ただ、『小学国語読本綜合研究』(⑦)においては呼び名がなかなか一定していません。玉井幸助は前半部分を「てりてり」と言ったり、後半部分を「法師」と言ったりもしています。また、柳田国男もときおり後半部分を「法師」と言っています。
前半部分については、かつて「てるてる」より「てりてり」のほうが主流だった時代があります。江戸時代半ば過ぎ(18世紀末)から明治期(20世紀はじめ)にかけてのことです。
後半部分についても、「坊主」より「法師」のほうが主流だった時代があります。文献上でてるてる坊主の初登場である江戸時代の中ごろ(18世紀はじめ)に始まり、江戸時代後期(19世紀はじめ)にかけてのことです。
本稿で対象とした昭和ヒトケタ(昭和元~9年=1926-34)のころには、「てりてり」「法師」ともにほぼ使われなくなっていました。それにもかかわらず、玉井幸助のような国文学者、あるいは柳田国男のような民俗学者が、思いがけず「てりてり」や「法師」を使っているのは、興味深いことです。
玉井は明治15年(1882)、柳田は明治8年(1875)の生まれ。2人がてるてる坊主に初めて触れたであろう幼少期は明治期(1868-1912)の前半。そのころのてるてる坊主の呼び名はというと、前半部分はまだ「てりてり」が主流だった時期です。後半部分はすでに「坊主」が主流となっていたものの、巷にはまだ「法師」が主流だった前時代の残響が聞かれたのかもしれません。
参考文献
①、『金の星』9巻8号(複刻版)、ぽるぷ出版、1983年(原本は金の星社発行、1927年)
②、後藤道雄 『迷信茶話』第3編、中外出版、1929年
③、浜田勝次郎 『葦笛』宗教童話集第1編、文書堂、1931年
④、信濃教育会北安曇部会〔編〕 『北安曇郡郷土誌稿』第4輯 俗信俚諺編、郷土研究社、1932年
⑤、田中ナナ 『金の風車』、金の星社、1933年
⑥、文部省 『小学国語読本』巻2 尋常科用、東京書籍、1933年
⑦、国語研究学会〔編〕 『小学国語読本綜合研究』巻2、岩波書店、1938年
・海後宗臣〔編〕 『日本教科書大系』近代編第7巻 国語4、講談社、1963年
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