昭和ヒトケタのころのてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#24】
はじめに
かつてのてるてる坊主像を探るべく、これまでに明治期(1868-1912)や大正期(1912-26)の書物に見られるてるてる坊主を紹介してきました(★大正期の事例については「100年ほど前のてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#23】」参照)。
大正末期の事例については、目下資料収集中につき、続いては時代を少し飛び越えて、昭和ヒトケタ(昭和元~9年=1926-34)の資料に目を向けてみましょう。わたしの管見が及んだのは以下の6つ(年代順)。
このうち、本稿ではまず前三者(①②③)についてご紹介します。
①、『金の星』9巻8号(1927年)
童謡・童話雑誌『金の星』が創刊されたのは大正8年(1919)11月。児童文芸雑誌が次々に刊行された時代です。創刊当初は『金の船』と題されており、大正11年6月から『金の星』に改められました。
昭和2年(1927)8月発行の9巻8号に、童話「てり〳〵坊」が掲載されています(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)。作者は西川喜平。生没年不詳など詳しいことは不明です。
「梅雨になつて、毎日ジメ〳〵降りつゞいてゐる雨が、中々やみませんでした」とお話は始まります。困った村人たちは、雨が止むようにと、1軒に1つずつてるてる坊主を作ることにしました[『金の星』1983:69-70頁]。
呼び名は、題名では「てり〳〵坊」、本文中では「てり〳〵坊主」あるいは「てり〳〵坊主さま」とまちまちです。
材料は紙。村のみんなが集まって作るのではなく、めいめいに作り、各家の軒先に「ブラリ〳〵」と吊り下げられています。願いどおりに好天になったら、たくさんの酒を差し上げるそうです。
その日のうちに雨は止み、日が射してきました。村人たちは大喜び。てるてる坊主にお礼を言いながら頭から酒を掛け、川に流したということです。
お話は続きがあります。村に1軒だけ、いつまでもてるてる坊主を軒下に吊るしたままの家がありました[『金の星』1983:70-71頁]。
権十には案の定、このあと罰が当たります。願いがかなったにもかかわらずてるてる坊主にお礼をしないのは、罰当たりだと考えられていたことがわかります。
加えて、「うつちやつてをく」、すなわち、てるてる坊主をいつまでも吊るしたままほったらかしておくのもまた、罰当たりだと考えられていたようです。お雛さまを桃の節供が過ぎてからも出したままにしておくのが忌まれるのと同じような感覚でしょうか。
お話はさらに続き、てるてる坊主の由来が一説には常陸(現在の茨城県)の妖怪「日和坊」、あるいは中国の「旱母」の伝説に求められることへと展開していきます。このあたりの由来譚については、また稿をあらためて。
2枚の挿絵にてるてる坊主の姿が描かれています。挿絵を描いたのは水島爾保布(1884-1958)。現在の東京都台東区出身の日本画家です。
1枚目は、酒が入っていると思われる徳利を前にして嬉しそうに満面の笑みを浮かべるてるてる坊主(★上記の図1参照)。頭は丸く、首は細く、顔には眉・目・口が書き込まれています。
着物を着ており、帯を締めています。袖の袂が長く伸びた着物には、あちこちに文字が記されています。
こちらに見えている面だけでも、「テリ〳〵」と2か所、「テル〳〵」「テレ〳〵」と3か所ずつ書かれています。おそらく背中側にもたくさん書かれているのでしょう。
もう1枚の絵は、権十の家の軒下に吊るされたまま、ほったらかしのてるてる坊主(★上記の図2-1と2-2参照)。先ほどの1枚目の絵とは異なり、簡単な作りです。顔や着物の詳細はわかりませんが、帯を締めているようです。そして、少し首をうなだれて、くたびれているように見えます。
②、後藤道雄『迷信茶話』第3編(1929年)
『迷信茶話』は大正15年~昭和4年(1926-29)に3冊が発行されました。さまざまな迷信をめぐる実話が並んでいます。著者は後藤道雄。題名に添えられた肩書に「医学博士」とありますが、生没年など詳しいことは不明です。
昭和4年発行の『迷信茶話』(第3編)に「雨乞のてる〳〵坊主」と題された1話が収められています。お話のテーマは「滑稽なる矛盾」。
「或る山間の僻村」が舞台です。「この間からの旱天つゞき。待ちに待つたる梅雨も空梅雨」という日々。村人たちは雨乞いのため神社に参籠します[後藤1929:5-6頁]。
村人たちが雨乞いのために鎮守の籠り堂に集まってお籠りをしています。徐々に酒が入ると、若い衆の1人は酔って「金時まがひ」、すなわち、坂田金時(金太郎)のような赤ら顔。興に乗って「てるてる坊主」の歌を披露します。
雨乞いの場でありながら晴天祈願の歌を歌ってしまうという、たいへんなうっかり者。しかし、そうした矛盾も「アイドントノー」とお構いなしに、酒が進むとともに場はおおいに盛り上がったようです。
赤ら顔の若い衆が歌った「てるてる坊主」は、当時からさかのぼること8年前、大正10年(1921)6月に発表された童謡です。作詞は浅原鏡村(1895-1977)、作曲は中山晋平(1887-1952)。
若い衆は「弟か小供のをでも聞きかじつた」のだろうと、著者は推測しています。童謡は発表から8年ほどで「山間の僻村」まで広まって親しまれていたようです。
なお、『迷信茶話』の発行元は中外出版。京都の中外日報社内にあった出版社です。京都を含む西日本では、江戸時代後期の1830年ごろから大正期(1912-26)ごろにかけての100年ほどのあいだ、てるてる坊主は「日和坊主」と呼ばれるのが一般的でした(★詳しくは、下記の「西日本では「日和坊主」というのは本当か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#6】」参照)。
『迷信茶話』(第3編)が発行されたのは昭和4年(1929)。このころになると、京都あたりでも「日和坊主」ではなく「てる〳〵坊主」という呼び名が使われるようになっていたようです。その要因としては、言うまでもなく童謡「てるてる坊主」の普及が挙げられるでしょう。
③、浜田勝次郎『葦笛』(1931年)
『葦笛』は文書堂から刊行された宗教童話集の第1編として昭和6年(1931)に発行されました。
作者は浜田勝次郎。生没年など詳しいことは不明ですが、共著に「基督教童話集」などもあることからキリスト教徒のようです。『葦笛』には38話の童話が収められています。それぞれの冒頭で聖書の一節を引いてあり、そこから着想を得た寓話が展開されます。
第28話が「てるてる法師」と題されたお話。冒頭、『旧約聖書』の「エレミヤ書」16章20節の言葉が引かれています。「人豈神にあらざるものを己が神となすべけんや」。
自分にとって神さまであるとは思えないものを、あなたはどうして信じることができるだろうか、というような意味でしょう。この聖書の言葉にまつわる寓話にてるてる坊主が登場します[浜田1931:130-131頁]。
呼び名は「てるてる法師」。「法師」と書いて「ばうず」と振り仮名が付されています。遠足を控えた前日なのに天気は下り坂という場面。男の子は祖母からてるてる坊主のまじないを教わります。
できあがったてるてる坊主に向けて、祖母は言葉を掛けます。願いがかなって晴れた場合には酒を掛けてあげるけれど、もしも願いがかなわず雨だった場合には「ゴミ箱に捨てゝやる」という脅し文句です。
結果は残酷です。「翌朝は大変な雨でした。吉夫さんは、てるてる法師の首を引つこぬいてドブに捨てました」。
願いがかなわず雨だった場合、祖母はゴミ箱に捨てると脅しましたが、男の子はより厳しく、首を引っこ抜いたうえでドブに捨てています。先述した聖書の言葉に立ち返ってみると、男の子は祖母が作るてるてる坊主をどうも信じかねていたようです。
願いがかなわなかった結果として、首を引っこ抜いたりドブに捨てたりという罰を与えるのはめずらしい事例ですが、類例も見られます。
1点目に首を引っこ抜く点をめぐって。大正期の当時からさらに時代をさかのぼること150年ほど、江戸時代の天明5年(1785)に詠まれた川柳にも、「娘あら事てる〳〵の首をぬき」という表現が見られます。
『川柳評万句合』(智3)に掲載された句です。願いがかなわなかったため、「娘」は思わずてるてる坊主の首を抜くという荒々しい行動(「あら事」)に出たようです。
2点目にドブに捨てる点をめぐって。 『葦笛』発行の19年前、明治45年(1912)に発行された『お伽歌劇』に似たような事例が見られます。作者は童話作家の巌谷小波(1870-1933)。
遠足を翌日に控えて兄妹がてるてる坊主を作って願いを込める場面が次のように描かれています[巌谷1912:297-298頁]。
願いがかなわず雨だった場合には、汚い溝へ投げ込んで石をぶつけるといいます。もとより、『葦笛』と同じく『お伽歌劇』もまたフィクション作品であり、こうした作法がかつて実際に見られたのかどうかは定かではありません。
おわりに
本稿では、わたしの管見が及んだ昭和ヒトケタ(昭和元~9年=1926-34)のころのてるてる坊主事例6例のうち3例をご紹介しました(★下記の表1参照)。この3例をてるてる坊主の変遷史のなかに位置づけてみましょう。切り口とするのは、呼び名と姿かたちの2点です。
1点めに呼び名をめぐって。本稿で紹介した事例に限ってみても、てるてる坊主の呼び名は多彩です。『金の星』(①)ではおもに「てり〳〵坊主」、『迷信茶話』(②)ではおもに「てる〳〵坊主」、そして、『葦笛』(③)では「てるてる法師」。
資料のうえでてるてる坊主を初めて確認できるのは、わたしの管見の限りでは江戸時代の中ごろ。以来、その呼び名は昭和の前期ごろまでは決して一定してはいませんでした(★下記の表2、および、文末の「「てりてり」から「てるてる」への回帰【てるてる坊主の呼び名をめぐって#2 近代(明治・大正・昭和前期)編】」、「「法師」から「坊主」へ【同#7】」参照)。
呼び名の前半部分に関しては、昨今ではもっぱら「てるてる」ですが、「てりてり」が主流だった時代もあります。江戸時代半ば過ぎ(18世紀末)から明治期(20世紀はじめ)にかけてのことです。
その後の大正期から昭和前期にかけては、「てりてり」という事例はわたしの管見の限りでは、3例しか確認できていません。『金の星』(①)はその3例のうちのひとつです。
いっぽう、呼び名の後半部分に関しては、昨今ではもっぱら「坊主」ですが、「法師」が主流だった時代があります。こちらは、てるてる坊主の初出と思われる江戸時代の中ごろ(18世紀はじめ)から後期(19世紀はじめ)にかけてのことです。
それからしばらく経った明治期から昭和前期にかけては、「法師」という事例はわずか2例しか確認できていません。『葦笛』(③)はその2例のうちのひとつです。
ただし、『葦笛』では先述のように「法師」に「ばうず」と振り仮名が付されていました。表記は「法師」で、読みかたは「ばうず」すなわち「坊主」。こういった齟齬が見られるのも、呼び名が「法師」から「坊主」へとゆるやかに移り変わった過渡期の名残といえるのかもしれません。
2点めに姿かたちをめぐって。本稿で紹介した3例のうち、『金の星』(①)には挿絵が2枚あるので、てるてる坊主の姿かたちが一目瞭然です(★前掲した図1と図2参照)。2枚とも、描かれたてるてる坊主は着物を着て帯を締めています。
また、『葦笛』(③)には挿絵はないものの、願いがかなわなかった際の「首を引つこぬいて」という表現があるのが注目されます。昨今のてるてる坊主の場合、頭の部分を包んだ紙か布が首の部分で括られ、そのままスカートのように裾まで伸びた作りです。頭と衣装が一体化しているので、首を取ろうとするなら、引っこ抜くのではなく引きちぎる必要があります。
首を引っこ抜くことができるのは、胴体や着物に首を挿し込む作りの場合です。前掲した『金の星』(①)の挿絵のようなかたちです。昭和ヒトケタのころはこうした作りの着物姿をしたてるてる坊主が一般的だったようです。
昭和ヒトケタのころのてるてる坊主事例のうち、本稿で紹介しきれなかった残る3例については、また別稿にて検討の機会をもちたいと思います。
参考文献
①、『金の星』9巻8号(複刻版)、ぽるぷ出版、1983年(原本は金の星社発行、1927年)
②、後藤道雄 『迷信茶話』第3編、中外出版、1929年
③、浜田勝次郎 『葦笛』宗教童話集第1編、文書堂、1931年
・巌谷小波 『お伽歌劇』(小波お伽文庫2)、博文館、1912年
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