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明治期の辞書に見られる、てるてる坊主像 【てるてる坊主考note #18】

はじめに


 てるてる坊主研究所で収集してきた古今の資料に目を配ると、そこに広がっているのは、決して画一的ではない多彩なてるてる坊主像です。
 たとえば、国語学者の松井栄一しげかず(1926-2018)は『「のっぺら坊」と「てるてる坊主」』のなかで、明治・大正・昭和期の辞書を手がかりに、てるてる坊主の呼び名について分析しています。そして、明治・大正期から昭和30年ごろまでは、「て坊主」という呼びかたが圧倒的に多かったことを指摘しています。
 つまり、昨今では一般的な「てるてる坊主」という呼びかたが定着したのは昭和30年以降のようです(★詳しくは「「てりてり」が先か「てるてる」が先か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#1 近世(江戸時代)編】」参照)。

 こうした先学の手法に学びつつ、本稿では対象を明治期(1868-1912)の辞書に絞って、当時のてるてる坊主像に迫ってみましょう。切り口とするのは、松井が注目した呼び名に加えて、作り手、設置場所や設置方法、お礼の作法などです。わたしたちはそこで、昨今とはひと味もふた味も違ったてるてる坊主像を目の当たりにすることになるでしょう。
 なお、先述した松井の場合、対象とした明治期の辞書は12点のようですが、具体的な書名は数点しか明示されていません。ただ、松井は明治期の代表的な辞書を集めた『明治期国語辞書大系』の共編者に名を連ねていることから、おそらくこの大系に収められている辞書を主に参照したのであろうと推測されます。
 本稿では、その『明治期国語辞書大系』収録の辞書を中心に、国立国会図書館のデジタルコレクションを参照したり、近隣の公共図書館へ足を運んだりして、なるべく辞書の原本を確認しながら調査を進めました。

1、 項目の有無

 明治期の辞書のなかで、わたしの管見が及んだのは32点。そのなかで、てるてる坊主を採り上げている辞書は17点ありました(★表1参照)。

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 年代を区切って傾向を探ってみましょう。明治期のはじめ、明治元年から10年までの10年間(1868-77)は、対象とすべき辞書そのものが見られません。明治11年から20年までの10年間(1878-87)には5点の辞書が見られますが、てるてる坊主を採り上げている辞書は皆無です。
 明治期の辞書におけるてるてる坊主の初登場は、明治22年(1889)の『和漢雅俗いろは辞典』(①)を俟たなくてはなりません。明治21年から25年までの5年間(1888-92)には、9点の辞書のうち2点の辞書にてるてる坊主が採り上げられています。
 その後、てるてる坊主を採り上げている辞書は急増します。明治26年から30年までの5年間(1893-97)には、6点の辞書全てに採り上げられています。
 その後も5年ごとに区切ってみていくと、明治31年から35年まで(1898-1902)は4点中2点、明治36年から40年まで(1903-07)は4点中3点、明治41年から45年まで(1908-12)は4点中4点に採り上げられています。
 明治期後半の明治26年(1893)以降に限ってみれば、18点のうち実に15点に採り上げられています。明治25年以前には、14点中2点にしか採り上げられていないのと比べ、まさに雲泥の差です。

 明治期前半にも、てるてる坊主の風習そのものは広く見られたはずです。それなのに、なぜ辞書に採り上げられることが少なかったのか、その理由は謎です。ひょっとすると、取るに足らない迷信とでも考えられていたのでしょうか。
 参考までに、ふと思いついたところで、「かかし」(案山子)や「だるま」(達磨)についてはどうでしょう。てるてる坊主と似たような、まじないや祈願に用いられる道具たちです。
 てるてる坊主が採り上げられることの少なかった、明治期前半の辞書から、たとえば『ことばのその』(明治18年=1885)と『ことばのはやし』(明治21年=1888)を引いてみます。すると、双方ともに、「かかし」の項はあるものの「だるま」の項はありませんでした(「かかし」の正確な表記は、『ことばのその』では「かゞし」、『ことばのはやし』では「かがし」)[近藤1885:5丁ウラ、物集1888:387頁]。当時、「てるてる坊主」は「かかし」ほどには重要な言葉ではなかったようです。

2、 呼び名は「てりてり坊主」

 本稿ではこれまで、「てるてる坊主」という語を何気なく使ってきました。しかし、てるてる坊主が登場する明治期の辞書17点の見出しに注目してみると、先ほども少し触れたように、当時はそうした呼び名は一般的ではなかったようです。呼び名の前半部分と後半部分に分けて整理してみましょう(★表2参照)。

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 まずは、前半の「てるてる」の部分。驚くべきことに、辞書17点中16点において、主要な見出しは「てるてる」ではなく「てりてり」です(片仮名の「テリテリ」1点も含む)。
 ただし、「てるてる」も時おり使われることがあったようです。『日本大辞典』(⑦)では唯一、「てるてる」が主要な見出しとして採用されています。「てりてり」への言及は全く見られません。
 あるいは、副次的に「てるてる」の項目があって、「てりてり」を参照する流れになっている例が8点あります(表2の△印)。また、項目は立てられていないものの、説明のなかで「てるてる」と呼ぶ場合もあることに触れている例が2点あります(同▲印)。すなわち、副次的ではあれ「てるてる」に言及している例が、合わせて10点を数えます。
 ほかに、珍しいところでは、『国語辞典』(⑪)において「てれてれ」とも呼ぶことが紹介されています。

 次に、後半の「坊主」の部分。こちらは、主要な見出しは全て「坊主」です。ただ、副次的に「法師」の項目があって、「坊主」を参照する流れになっている例が5点あります(同▽印)。また、項目は立てられていないものの、説明のなかで「法師」と呼ぶ場合もあることに触れている例が1点あります(同▼印)。副次的に「法師」に言及している例は、合わせて6点を数えます。
 そして、珍しいところでは、『国語漢文新辞典』(⑫)において「てりひな」(照雛)とも呼ぶことが紹介されています。「雛」というとお雛さまが思い浮かびますが、「雛」とは元々は、紙などで作って着物を着せた人形を指します。てるてる坊主に着物というと、昨今では全く見慣れませんが、実は意外と深い関わりがあるので、のちにまた触れます。

 呼び名について整理してみると、当時は「てりてり坊主」が一般的ではあるものの、前半部分を「てるてる」、後半部分を「法師」と言い換えてみても十分に通じる、といったところでしょうか。こうした呼び名の多彩さを念頭に置きつつも、煩雑になるのを避けるため、本稿では呼び名を「てるてる坊主」という語で代表させて、今後も用いていきます。

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3、 作り手は女の子

 昨今、てるてる坊主の主な作り手は子どもたちでしょう。小学校の児童や保育園・幼稚園などの園児が、運動会や遠足といった行事や、友達や家族との外出を前にして、作ることが多いように見受けられます。もちろん、それより年上の中高生や大人たちだって、ときにはてるてる坊主に願いを込めることがあっても、不思議ではありません。
 明治期の辞書の説明ではどうでしょう。辞書17点のうち、てるてる坊主の作り手について明記されているのは12点(★上掲の表4参照)。その12点の内訳として最も多いのが「女の子」で、半数の6点を占めます。
 それ以外の6点はというと、5点は「子ども・女性」の組み合わせ、残る1点が単に「子ども」です。5点見られる「子ども・女性」の場合、子どもに関しては男女の区別なく、さらには成人女性も含まれるのでしょう。つまり、成人男性だけが対象外です。また、昨今多く見られるような、作り手を単に「子ども」とする事例は、意外なことに1点(①)しか見られません。
 概して、作り手は子どもたちであるものの、とりわけ女の子がおこなう風習という傾向が強く窺えます。作り手が明記されている12点のうち、女の子は12点全てに当てはまります。
 加えて、男の子や成人女性が担うこともしばしばあったことがわかります。男の子は12点中6点、成人女性は12点中5点に当てはまります。成人男性は12点いずれにも当てはまりません。

4、 軒に「懸ける」

 昨今のてるてる坊主は軒下や窓辺に吊るされるのが一般的です。明治期の辞書の説明ではどうでしょう。
 辞書17点のうち、てるてる坊主の設置場所について明記されているのは15点(★上掲の表4参照)。そのうち14点において、設置場所は軒と記されています。唯一の例外が『日本大辞典』(⑦)で、「外に出だし置く」とだけ記されています。
 もうひとつ、注目したいのが『日本大辞林』(④)の記述。「木枝(キノエダ)、またハ、軒端(ノキバ)などに、さかさまにかくるものなり」と記されています。設置場所について、軒と並んで木の枝という説明が見られる、明治期唯一の事例です。
 さらには設置方法についても、明治期で唯一、逆さまにすると明記されています。てるてる坊主を逆さまにするのは、江戸時代の一時期、18世紀の終わりごろから19世紀の中ごろにかけて主流だった作法です(★詳しくは「逆さまのてるてる坊主【てるてる坊主の作りかた#1】」参照)。

 設置方法をめぐっては、上記の『日本大辞林』(④)にも見られたように、「かくる」(懸ける)という表現がとても目立ちます。設置場所を明記した15点のうち14点には設置方法が明記されており、いずれも「吊るす」ではなく「懸ける」という表現が使われています。
 昨今では、てるてる坊主を「懸ける」ではなく、「吊るす」という表現のほうが自然な気がします。はたして、「吊るす」と「懸ける」の違いとは。
 「吊るす」場合には、設置場所から長く垂れた糸か紐の先に、てるてる坊主が宙ぶらりんになっている様子が思い浮かびます。いっぽう、「懸ける」場合には、輪にした短い紐などで、てるてる坊主を軒などに引っ掛けて、つなぎ留めておくような感じでしょうか。

 ここで参考までに、当時の設置方法を窺うことができる絵を見てみましょう。辞書ではないのですが、『麗新画帖』(明治33年=1900)という図案集に掲載されている事例です。そこには、着物を着たてるてる坊主が「吊るす」というより「懸ける」といった姿で描かれています。「懸ける」のに使われているはずの紐は、短くてもはや見えません(★図参照)。

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 なお、この『麗新画帖』に描かれたてるてる坊主の設置場所に注目してみると、明治期に圧倒的に多く見られた軒ではありません。珍しく、先述の『日本大辞林』(④)で言及されていたように、木の枝に懸けられています。ただし、逆さまではありません。

5、 お礼の作法

 願いがかなった際の、てるてる坊主へのお礼については、5点の辞書で言及されています。そのうちの3点(②③⑥)では漠然と、晴れたら「物」を供えると説明されています。供える「物」とは何なのか、詳しくはわかりません。
 そのほかの2点には、てるてる坊主へのお礼について具体的に記されているので、順を追って詳しく見ていきましょう。

 まず、1点目は『日本大辞典』(⑦)で、次のように記されています。「晴天を祈る時紙にて裸体の人形を作り……(中略)……願叶へば衣を着せ食物を供へなどして之に謝す」。ここには、供える「物」とは「食物」であることが明記されています。
 加えて、衣を着せるという作法についても言及されています。衣を着たてるてる坊主というと、いったいどういった姿なのか、昨今では想像しにくいかもしれません。
 そういえば、先述した明治期の図案集『麗新画帖』にも、てるてる坊主は着物姿で描かれていました。実は、昭和30年代前半ぐらいまでは、てるてる坊主は着物を着ているのが普通の姿だったようです(★詳しくは「【てるてる坊主動画#2】忘れられたてるてる坊主 ―かつて見られた着物姿をめぐって―」参照)。

 注目したいのは、上記の『日本大辞典』(⑦)において、衣を着せるのは願いがかなったお礼として、と説明されている点です。こうしたお礼の作法について触れているのは、この『日本大辞典』が明治期の辞書のなかで唯一の例です。そればかりでなく、わたしの管見が及んだ古今のてるてる坊主資料のなかでも唯一の例です。
 そして、『日本大辞典』の記述によれば、願いがかなってはじめて衣を着せるので、てるてる坊主を作る時点では衣を着せずに「裸体」にしておくそうです。「裸体」のてるてる坊主とは、どういった姿なのか気になりますが、詳しくはわかりません。

 続いて、2点目の『日本百科大辞典』(⑰)には、次のような記述が見られます。「もし其験にて天晴るゝときは、人形を取りてこれに神酒を供へ、川に流すなり。古くは願かなひぬれば墨にて眼睛を入れたりしにや、不角が点の句に「てる〳〵法師月に目が明」と見えたり」。
 すなわち、てるてる坊主の効果があって晴れた場合に、当時は「神酒を供へ、川に流す」という作法が見られたそうです。さらには、こうしたお礼のしかたは新しい作法のようで、古くは「墨にて眼睛を入れた」と説明されています。
 ここで、墨で瞳を書き入れていた、古い時代の例として挙げられている「不角が点の句」とは、江戸時代の俳人・立羽不角たちばふかく(1662-1753)が編んだ雑俳集『篗纑輪わくかせわ』(享保12年=1727)に収められている一句を指します。句の作者は梧角(生没年不詳)。句に詠まれているのは、空が晴れて月が見えたので、無事に「てるてる法師」に瞳が書き入れられた、という情景です。
 この句が詠まれた享保12年(1727)というと江戸時代の中ごろ。そのころは、てるてる坊主へのお礼として「瞳を書き入れる」という作法が見られたことがわかります。そして、しばらくのちの明治期には「神酒を供える」「川に流す」という作法が見られるようになったという変遷を、この『日本百科大辞典』の説明文から読み取ることができます。
 もっとも、ここに挙げた「瞳を書き入れる」「神酒を供える」「川に流す」といったお礼のしかたは、実は古今を通じて散見される作法です。ただ、不思議なことに明治期の辞書においては、『日本百科大辞典』以外では全く触れられていません。

6、 中国の「掃晴娘」

 てるてる坊主の説明文のなかには、「掃晴娘」という語がしばしば見られます。てるてる坊主についての記載が見られる明治期の辞書17点のうち、過半数の9点に「掃晴娘」と記されています。
 掃晴娘とは何でしょう。ほとんどの辞書には、ただ「掃晴娘」と記されているだけで、それ以上の言及は見られません。唯一、掃晴娘について詳述しているのが、やはり『日本百科大辞典』(⑰)で、以下のように説明されています。

支那にても此風古くより行はれ、霖雨にあたり、白紙を以て婦人の首を作り紅緑紙を剪りてこれに着せ、箒を以て、檐際に懸けて晴を祈り、これを掃晴娘と呼ぶと云へり。

 『日本百科大辞典』の記述内容については、本稿でこれまで何度も採り上げてきました。上掲した表3を見ると明らかなように、説明がとても豊かで詳しく、ほかの辞書には見られない独自の記述も目立ちます。執筆担当者は文学者の高木尚介(生没年不詳)。
 説明文にあるとおり、掃晴娘とは中国に古くから伝えられてきた風習です。てるてる坊主と異なる点としては、呼び名のとおりに女性であることがはっきりしている点、および、ほうきを手にしている点などが挙げられます。
 それでも、紙で人形を作り、軒に懸けて晴れを祈るというまじないの作法は、てるてる坊主とそっくりです。そのため、日本のてるてる坊主とよく似た、看過することのできない中国の風習として、9点もの辞書で掃晴娘に言及されているのでしょう(★掃晴娘とてるてる坊主の相違点について詳しくは、「掃晴娘と比べてみれば【てるてる坊主考note#13】」、および、その続編【同#14】参照)。

 『日本百科大辞典』の「掃晴娘」の説明に話を戻しましょう。作りかたとしては、まずは「白紙を以て婦人の首を作り」とあるので、芯となる部分を先に作っておくようです。次に「紅緑紙を剪りてこれに着せ」とあるので、別の紙を裁って作った着物を着せるようです。こうした手順もまた、当時の着物姿をしたてるてる坊主の作りかたとよく似ていたのでしょう。
 なお、掃晴娘の首を白紙で作り、着物は「紅緑紙」を裁って作るという記述は、中国の『帝京景物略』に見られます。明の時代、崇禎8年(1635)刊行の書物で、当時の北京における名所や風習などが紹介されています。編者は劉侗と于奕正(ともに生没年不詳)[崔1996]。『日本百科大辞典』でてるてる坊主の項を執筆担当した高木尚介は、掃晴娘をめぐってはこの『帝京景物略』の記述を参照したのであろうと推測されます。

7、その他の気になる点いくつか

 『日本百科大辞典』(⑰)の詳細な説明文には、ほかにもいくつか気になる点が2つあります。
 1つめは、てるてる坊主に文字を書き込むことをめぐって。「満身に「てれ〳〵」と書き檐際に懸けて呪とす」という記述が見られます。「てれ〳〵」という文言は、言うまでもなく、日が照るようにという願いを込めたものでしょう。
 文字を書き込むことに言及している明治期の辞書は、この『日本百科大辞典』のみです。しかしながら、てるてる坊主に文字を書き込む作法は、古今を通じてしばしば見られます。先述した明治期の図案集『麗新画帖』の挿絵でも、着物に「てる〳〵」「きら〳〵」などの文言が書き込まれています(★詳しくは「【てるてる坊主動画#4】てるてる坊主に文字を書くこと―近世・近代編―」、および、その続編「【同#5】―現代編―」参照)。

 気になる点のもう1つは、『蜻蛉日記』の記述をめぐって。こちらについては、大きな誤りを指摘できます。対象とするのは『日本百科大辞典』の以下のような記述です。

此習俗は古く行はりたりけん。蜻蛉日記に、雨いたう降る日、或る人の女神に衣縫ひて奉れと云へば、縑(カトリ)の雛衣三っ縫ひて衣の下交(シモガヒ)に歌を記したる事を載せたり。これも雨降る日の事なれば、雨を祈らんとて紙人形を製したるなるべし。

 説明文によれば、このてるてる坊主の風習は古くからおこなわれていたと見えて、平安時代の『蜻蛉日記』にもてるてる坊主を彷彿とさせる事例が載っているといいます。すなわち、雨がひどく降る日のこと、「こんなときは、衣を縫って女神さまに奉納するといい」とある人が言うので、絹布で雛人形の着物を3枚縫って、それぞれの着物の下前したまえの部分に歌を書いた、という内容の記事が『蜻蛉日記』に見られると紹介されています。
 それをふまえて執筆担当者の高木尚介は、ここに綴られているのは雨の降る日の出来事なので、雨を祈るために紙人形を作ったのであろう、と述べています。「雨降る日」に「雨を祈らん」とは、明らかに矛盾した記述のように思われます。ここでは、「雨を祈らん」とは、降り続く雨のコントロールを試みたのだと捉えておきましょう。
 整理すると、雨の降る日に「雛衣」を縫って女神に奉納した、という内容の記事が『蜻蛉日記』に載っている。これは雨の降る日の記事なので、「紙人形」は雨をコントロールするために作られたのであろうと考えられる。そして、この「紙人形」の性格はてるてる坊主とよく似ている。こうしたことから『日本百科大辞典』では、てるてる坊主の説明として『蜻蛉日記』の記述を詳しく紹介しているようです。
 しかしながら、『日本百科大辞典』の引用部分だけでなく、『蜻蛉日記』の該当箇所の前後にまで広く目を通してみると一目瞭然なのですが、「雛衣」は雨をコントロールするために奉納されているわけではありません。実際のところ、「雛衣」は夫婦円満を願って奉納されているのです。ましてや、「紙人形」などは一切作られていません。
 『日本百科大辞典』において、てるてる坊主の説明として「雛衣」の記事を引用しているのは、筋違いであることは明白です。もとより、この平安時代の『蜻蛉日記』に記された「雛衣」について、あたかもてるてる坊主の起源であるかのように紹介する過ちは、江戸時代以来、幾たびも繰り返されてきたのが実状です(★詳しくは「『蜻蛉日記』の「ひひなぎぬ」【てるてる坊主考note#11】」参照)。

おわりに

 本稿では、明治期の辞書を題材として、当時のてるてる坊主像を浮き彫りにすることを目指してきました。とりわけ、呼び名や作り手、お礼の作法といった点では、昨今との大きな違いを確認することができました。
 ところで、冒頭で触れた松井栄一は、明治期の辞書におけるてるてる坊主の呼び名を整理したうえで、「明治時代の辞書で「てりてり~」が主になっている」ものの、当時の小説などに見られる実例では、「かえって「てるてる~」の方が例がある」と鋭い疑問を呈しています[松井2004:19-20頁]。
 松井の分析によれば、辞書から読み取ることができる傾向と、辞書以外の実例とのあいだに、齟齬が見られるというのです。松井によるこうした指摘は、対象を呼び名に絞った考察から得られたものです。
 同様の齟齬は、はたして、呼び名以外の属性についても窺えるのでしょうか。本稿で注目してきた、作り手、設置場所や設置方法、お礼の作法といった点をめぐっても、辞書以外の実例との比較が必要でしょう。
 併せて、本稿で注目した明治期よりあとの時代、すなわち大正期以降の辞書に見られるてるてる坊主像についても、機会をあらためて整理し、比較検討の材料を用意できればと思います。


参考文献

【全体に関わるもの】(著者名の日本語読みでの五十音順。二重括弧内は原典にあたることができなかったための参照元。)
・近藤真琴 『ことばのその』2のまき、瑞穂屋卯三郎ほか、1885年
・松井栄一 『「のっぺら坊」と「てるてる坊主」 現代日本語の意外な真実』、小学館、2004年
・松井由谷 『麗新画帖』下、本田書店、1900年
・物集高見 『ことばのはやし』、みづほや、1888年
・刘侗・于奕正 『帝京景物略』、1635年 ≪崔瞿〔校注〕、上海遠東出版社、1996年≫

【表に関わるもの】(丸数字は表1~4のそれぞれの№に対応)
①高橋五郎〔編〕 『和漢雅俗いろは辞典』、いろは辞典発行部、1889年
②大槻文彦〔編〕 『言海』、1891年
③山田美妙 『日本大辞書』第10巻、日本大辞書発行所、1893年
④物集高見〔編〕 『日本大辞林』、宮内省、1894年
⑤三田村熊之介 『日本新辞書』、松雲堂、1895年
⑥藤井乙男・草野清民〔編〕 『帝国大辞典』、三省堂、1896年
⑦大和田建樹〔編〕 『日本大辞典』、博文館、1896年
⑧棚橋一郎・林甕臣〔編〕 『日本新辞林』、三省堂、1897年
⑨落合直文 『ことばの泉』、大倉書店、1898年
⑩山田美妙 『帝国以呂波節用大全』、嵩山堂、1898年
⑪林幸行ほか 『国語辞典』修学堂、1904年
⑫井上頼囶 『国語漢文新辞典』、大倉書店、1905年
⑬金沢庄三郎〔編〕 『辞林』、三省堂、1907年
⑭森本樵作〔編〕 『実用新辞典 : 発音数引』、開文館、1908年
⑮松平円次郎ほか 『俗語辞海』、集文館、1909年
⑯山田美妙〔編〕 『大辞典』下、嵩山堂、1912年
⑰三省堂編輯所〔編〕 『日本百科大辞典』第7巻、三省堂書店、1912年


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