tritonisland

説教聴聞記を中心に雑文を書いてアップしています。

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最近の記事

マタイ6-9藤盛牧師説教

だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 マタイによる福音書 6:9 あがめる、とは、聖とするという意味である。主たる父は恐ろしく遠いところにいる。われわれ人間と神との間には大きな隔たりがある。決してたどり着くことはできない。しかし、イエスの死によって私たちは父を見た。見たというより、その存在を知ったというほうが正しいだろう。 人間はイエスの死によって罪を許された。罪を問うことなく、神と和解させた。いいかえれば、イエ

    • 説教聴聞録ヨハネ12-1~11星野江理香牧師

      その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。 ヨハネによる福音書 12:3 このことについて、 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「なんというもったいないことをするのか」と。これに対して、イエスは言われた。「貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。 わたしたちがイエスに会える時は限られてい

      • 60歳の誓い

        社会人としては全く無能でした。だから、あまりえらくなれなかった。できないことができない。どうしてもできない。もう諦めて、やれることだけやった。でも、そのやれることがあまり評価制度の対象でなかった。そのまま、ついに卒業の時期がきてしまった。 だから反省してるし後悔もしてる。もっと他に道があったんじゃないかと。でも遡ってやり直しはできない。もう忘れるしかないのだ。ぼくにとって不幸なのは、早く妻を亡くしてしまったことだ。原因がわからないが、ぼくの人生が順風満帆で楽しく豊かなものだ

        • 葬儀について

          60歳になった。60年の自分の人生を振り返って考えてみると、いままで何度、葬儀に参列したことだろう。先月には、母親の葬儀も行った。これからもいくつか葬儀に立ち会うだろう。そして、最後には自分の葬儀ということになる。 一番最初の葬儀は、浄土宗の寺の住職であった祖父の葬儀であった。今となっては、あまり、その祖父のこと自体はよく覚えていない。祖父のことはよく覚えていないのに、葬儀のことだけはよく覚えている。葬儀がこんなに大変なものであるかと痛感したからである。祖父は昭和49年5月

        マタイ6-9藤盛牧師説教

          定年退職による人間関係の変化について

          会社員生活が終わってしまうと、いろいろ環境が変わる。一番大きいのは、接触する人が減ることだろう。会社にいるときの自分の関係者は数多くいる。好きな人もいれば嫌いな人もいる。会社にいる限りは好きも嫌いもなく、別け隔てなく付き合わなければならない。付き合うというより、お互いに利害関係者になるということだろうか。とりあえず、良くも悪くも顔を合わせば挨拶くらいする関係がある。いわゆる、仕事上のつきあいということである。 ところが、会社員でなくなってしまうと、その会社での関係が丸ごと失

          定年退職による人間関係の変化について

          ヨハネ8.1~11小宮一文牧師説教詩篇14.1~11

          ‭‭ヨハネによる福音書 8:7 口語訳‬‬ [7] 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 パリサイ派の学者たちがイエスを攻撃する。姦淫でつかまえられた女を石打ちにすべきかすべきでないか。どちらに答えても論破される危機に襲われていた。 ‭‭ヨハネによる福音書 8:7 口語訳‬‬ [7] 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石

          ヨハネ8.1~11小宮一文牧師説教詩篇14.1~11

          幸福の思い出が哀しみに変わるとき

          何も考えていないとき、ふと、昔の記憶がよみがえってくることがある。それも下の茜が生まれる前、麻衣が生まれた後のころだろうか。ぼくが運転して妻の千恵と3人で嵐山のあたりを車で移動している。何でそこにいたのかわからない。とにかく、3人で車に乗っている。幼い麻衣が悲しそうに「おせんべい食べたい。おばあちゃんに会いたい」と泣いている。今はこの世にいない千恵がなだめている。そんな記憶が何度も何度もよみがえってくる。強烈にその場に舞い戻って、ぼくも麻衣をなだめたくなる。そんな記憶などもう

          幸福の思い出が哀しみに変わるとき

          マタイ5-38~48藤盛牧師説教‭‭エゼキエル18-21~32

          ‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:41‬ ‭口語訳‬‬ [41] もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 誰かが行けというなら、その人とともに行きなさい。イエスの代わりに十字架を背負って歩かされたキレネ人のシモンは、まさにこの通りの人だった。シモンはただの通りがかりの旅人であった。キリストの代わりに十字架を背負って歩けと言われて、何も歯向かうことなくゴルゴダの丘まで重い十字架を背負って歩いた。 ‭‭マタイによる福音書‬

          マタイ5-38~48藤盛牧師説教‭‭エゼキエル18-21~32

          生きる苦しみについて

          有名なカトリック系の学校でシスターをしている方から葉書が届いた。2015年の年末に長崎県五島に観光に行った際に知り合って以来のおつきあいであるが、つい最近、わたしがお元気ですかと葉書を送ってから、葉書のやり取りをさせてもらっている。 ちょうど辛いときに受け取ったもので、涙が出るほどうれしかった。葉書には90歳を超えたお父上が入院して落ち込んでいるということが書かれてあった。生きるのは大変なことですとも書かれてあり、わたしが妻を亡くしたことへの労りの言葉も書き添えられていた。

          生きる苦しみについて

          マタイ5-27~32藤盛牧師説教‭‭エゼキエル18-25~32

          ‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:23‬ ‭口語訳‬‬ [23] だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら.…。 心の中で姦淫を犯したものは、実際に罪を犯したのも同然であると。手が悪いことをしたら、手だけでも切り落とせ、眼が悪いものを見たならえぐり取って捨てろと。著者は小学生のころ、聖書のこの部分を読んで、絶対キリスト教の信者にはなれないと思ったものだった。 それほど厳しいことを人間にイエスは要求した

          マタイ5-27~32藤盛牧師説教‭‭エゼキエル18-25~32

          説教聴聞録ヨハネ2-13~22星野江理香牧師

          ‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭2:16‬ ‭口語訳‬‬ [16] はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 イエスは、過越祭のエルサレムで怒って暴れた。このことをどう考えるか。本当に腹が立って怒って暴れたのか。恐らく、そうではない。 過越祭では、本来、信仰の祭であったものが、次第に世俗化され、神殿の商業施設化が進みつつあった。本来の信仰というものがないがしろにされ、建前だけの宗教行事にされたことを民衆に伝え

          説教聴聞録ヨハネ2-13~22星野江理香牧師

          マタイ5-21~26藤盛牧師説教‭‭エゼキエル18-25~32

          ‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:22‬ ‭口語訳‬‬ [22] しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 律法の基準は厳しい。悪いことをしたら腕を切り落とせと。 神の基準は厳しいのではなく、内面が問われるのである。たとえば、毎週欠かさずに礼拝と出ていたとしても、それに内容が伴わなければ何も信仰を果たしたとはい

          マタイ5-21~26藤盛牧師説教‭‭エゼキエル18-25~32

          マタイ5-17~20藤盛牧師説教‭‭詩篇14-1~6

          ‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:17‬ ‭口語訳‬‬ [17] わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 律法をすべて守った人は一人しかいない。イエス・キリストその人である。律法によっては罪の自覚しか生じない。律法は私たちを救ってくれない。律法学者たちはそこでまちがっていた。 律法から解き放たれ、人が義とされるのは信仰によってのみである。主は土塊に息を吹き込み人とされた。主はむなしく死ぬなと言われた。イエ

          マタイ5-17~20藤盛牧師説教‭‭詩篇14-1~6

          交通事故やってしまった

          この年末にきて、ちょっとした事故を起こしてしまった。本当になさけない。 クルマでカニを買いに角上魚類の行ったのだが、右折できず、信号で右折してUターンして左折しようと大通りに出たところで自転車をはねてしまった。ゴンっという音がして顔から血の気が引いた。 あわてて降りて確認したら高齢の男性が立っていて自転車が倒れてあった。あわててケガがないですか。と駆け寄って介抱したのだが、足を打撲しただけのようだった。そうは言ってもこっちが全面的に悪いわけで、やるだけのことはやろうと覚悟

          交通事故やってしまった

          小宮牧師説教‭‭詩篇139:1~12

          ‭‭詩篇‬ ‭139:12‬ ‭口語訳‬‬ [12] あなたには、やみも暗くはなく、 夜も昼のように輝きます。 あなたには、やみも光も異なることはありません。 人間の悩みや不安は、全ては人間関係に尽きる。自分が誰からも相手にされず、孤独になってしまうことの恐れに尽きる。 イエスは神の独り子でありながら、この世にやってきて、人と同じように生き、孤独を味わい、最後には父なる神にも見放されて死んだ。最後には「この人たちをゆるしてあげてください」と言い残して。イエス様だけが本当の

          小宮牧師説教‭‭詩篇139:1~12

          藤盛牧師説教‭‭ルカ2:1~20

          ‭‭ルカによる福音書‬ ‭2:10‬ ‭口語訳‬‬ [10] 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 これを天使たちに聞かされたのは、世に蔑まれた羊飼いたちである。 天使たちは突然やってくる。世に捨てられた羊飼いたちにも突然天使たちはやってきて、とてつもないメッセージを預けられる。 神と人との間には大きな隔たりがある。どんなに求めても人は神になれない。永遠の隔たりといってもよい。 しかし、神は自ら人の世にやってきた。

          藤盛牧師説教‭‭ルカ2:1~20