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葬儀について

60歳になった。60年の自分の人生を振り返って考えてみると、いままで何度、葬儀に参列したことだろう。先月には、母親の葬儀も行った。これからもいくつか葬儀に立ち会うだろう。そして、最後には自分の葬儀ということになる。

一番最初の葬儀は、浄土宗の寺の住職であった祖父の葬儀であった。今となっては、あまり、その祖父のこと自体はよく覚えていない。祖父のことはよく覚えていないのに、葬儀のことだけはよく覚えている。葬儀がこんなに大変なものであるかと痛感したからである。祖父は昭和49年5月2日に遷化した。住職であった祖父はかたわらで長く教師でもあり、いわば地元の名士であり、実家には今でも勲何等かの賞状が残っている。住職としても高位の人だったようで、一般人よりも葬儀が多く複数回行われた。参列者も多かった。その葬儀が幼少期の自分には至って苦痛で、早く喪が明けて元の生活に戻してほしいと心から願ったものであった。また、生まれて初めて、なまの死体を見て、火葬にも立ち会い、少し前まで歩いていた祖父の人骨を見たことは衝撃的であった。

昭和の時代の葬儀は、令和時代の簡略化などとは真逆であり、近所でも誰かが亡くなると、その訃報は在所中に知れ渡り、通夜、葬儀が終わるまで在所中の大イベントであった。葬儀も自宅で行われるのが普通で、仰々しいものであった。当時の葬儀代はいくらくらいかかったのだろうか。高額であったことはまちがいない。葬儀屋さんも今と違って、在所によって業者さんが決まっていた。大手が参入する余地もなければ、今ではちまたにあふれている葬儀会館もなかった。その中でも、祖父の葬儀の仰々しさは他より抜きんでていた。

当時小学校5年だったが、たまたま、ほぼ同時期に祖父を亡くした同級生がいた。喪が明けてから彼と放課後にお菓子など食いながら葬儀の話をしたが、本当に心身ともに疲れたと互いに語り合ったことを今でも覚えている。彼いわく、くたびれが頂点に達して、畳の目が拡大して見えたということであった。ぼくは、激しく彼に同意したものだった。葬儀が、それほど遺族に負担をもたらす儀式であったことはまちがいない。当時のぼくら小学生が音を上げたレベルだった。葬儀の間、学校は忌引き休をもらえたのだが、忌引きの間ずっと宗教儀式が続いた。

そのときの、つらかった思い出があるから、実質的に母が喪主であった父の葬儀は別として、ぼくが喪主でやった妻と母の葬儀は簡素なものにした。妻の葬儀など、ぼくにとって生涯で一番つらい経験だったが、それでもあえて簡素にした。それは、経済的な問題ゆえでなく、家族を失ってこんなに悲しいのに、さらに葬儀で子どもたちや親族に心理的に身体的に負担を負わせたくなかったからである。葬儀の雑事で負担を負うくらいなら、それぞれが心の中でかみしめて故人を悼めばよいし、時間をたっぷりとって遺族同士で故人の思い出などを語り合うほうがよっぽどいいと思ったからだ。

先月には母の葬儀を自宅で行った。母は昨年12月8日に、和歌山ではなく、妹の家のある三重県桑名市で亡くなった。遺体は桑名で火葬し、しばらく妹の家に骨を置いといて、明けて1月21日に自宅で骨で葬儀を行った。香典や供花は断ったうえで、近所の人にも参列してもらった。うちの実家は築60年の木造であちこち建て増ししてあるが、葬儀を行った部屋は当初からある部屋で、父母が健在であったころ、また、ぼくや妹が実家に住んでいたころ、冬はこたつ、夏は扇風機やクーラーをかけて庭を眺めて団らんを過ごした部屋であった。

その部屋からは庭が見え、家を建てた当時から植わってある柿の木や梅の木がよく見え、葬儀の日は白梅と、ろう梅が咲き始めよい匂いを放っていた。その光景はまぎれもなく、父母が生前、見慣れ、愛した匂いと冬の光景であった。葬儀業者は手配せず、絹を模した白い化繊の布をあちこちに張って、さらに親族や勤め先が提供してくれた供花を飾れるだけ飾った。花に囲まれた手造りの質素でよい葬式だった。母は4年近く家を離れて桑名市の施設に入り、とうとう最後まで家に帰らせてあげることができなかった。実家で葬式したのは、その残念さがあったからである。

ところで、母の葬儀の後、近所の人と雑談をする中で、最近は誰か亡くなっても、なかなか知られなくなっているということを聞いた。長い介護施設での生活で、長く本人を見かけず、さらに葬儀会館で家族葬で済んでしまうと、長くおつきあいのあった人でも、消えたようにいなくなってしまうということだった。母の場合は、自宅で葬儀を行い、事前にできるだけ広く告知して、近隣にも町内会で回覧板を回してもらい、たくさんの近所の人に葬式に出てもらえてよかった気がする。

いま、祖父の葬儀と、母の葬儀について考えている。祖父の葬儀は50年たっても、小学生の自分が亡くなった日をしっかり覚えているほど精神的にも身体的にもつらい葬儀であった。その葬式に比べ、簡素化された最近の葬儀では、人が亡くなった実感を伴わなさ過ぎて、近所の人に知られないほど素っ気なく、味気ないものである感は否めないという。昭和49年の祖父の葬儀と、令和の極端に簡素された葬儀。どちらのほうがよいのだろうか。母の葬式はちょうどよい塩梅であった気がするのだが、喪主のうぬぼれであろうか。

2024年2月23日


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