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走ることとピアノを弾くことが好きです。

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最近の記事

ドストエフスキー『罪と罰』を読む その2

『罪と罰』下巻に入り、また数ヶ月放置していた。たまたま太宰治の『人間失格』を数年ぶりに読み返したところ、主人公の思案の中にこの小説のタイトルが出てきた。思うに長編小説を読み切るには、きっかけと勢いが必要である。300ページ以上を残していたが、週末の3日間で読んでしまった。本は読みかけにして数ヶ月も放置していれば、普通、内容は頭から抜け落ちて彼方へ飛んでいってしまうけれど、今回は2度読みかけて挫折した3度目の読みかけであって、今回ばかりは最後まで読み切るぞという意思が、心の片隅

    • 地上に立つ

      大地に足をつけること。それが生きることである。死は時間のない、全ての終焉であり、あらゆるものを絶対的な力で飲み込んでしまう。全てのものが死に向かい、死に行き着くが、そこには何もないのである。ただ無限の無が有る。 生は地上の有限のものである。なぜ地上があるのかはわからないが、とにかく生は地上にあり、たくさんの細いひもが絡みついて地上に生をとどめている。絡みつくひもがなければ生は地上にとどまることはできない。なぜなら、世界には全てを飲み込む無限が存在するからである。無限に引き寄せ

      • タチコマから考えるひとの心

        攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEXの第15話「機械たちの時間」が非常に興味深かったため、感想を交えつつセリフの文字起こしをしたいと思う。(なんと一年以上も下書きのままだった!)攻殻機動隊の世界観等の説明は、他サイトに預けたい。 あらすじ公安9課が保有する思考戦車タチコマ(AIの搭載されたロボット)が個性を持ち始めたことに草薙は懸念を抱き始めていた。第15話は同じく公安9課に所属するサイトーが『狙撃潜入システム一体型ヘリ』という試作機のシミュレーションを行うと

        • ドストエフスキーを読む

          ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいる。およそ1年ぶり3度目の挑戦。第3部、上巻の3/4くらいまで読んだ。主人公ラスコーリニコフのもとへ、愛すべき母と妹ドゥーネチカが到着したところまで。 ドストエフスキーはたびたび実存主義者として名前があげられるが、まだ何をもって彼が実存主義者とされているのかわからない。ドストエフスキーの小説の特徴として、人類のもつ普遍的なテーマ、すなわち神とか善悪とかを取り扱っていることがあげられるが、実存主義はむしろそのような普遍的なテーマは脇に置い

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          最近食べたうまいもの

          主体的自己の回復は、まず武蔵野うどんを食うところから始まる。 カレーは神保町に在り。水道橋から東に歩けば、北斎の弟子が描いたのと同じお茶の水の坂を下る。 両国で昼間から飲むのが良い。両国にはジンギスカンが在る。ちゃんこが在る。美術館と博物館と庭園が在る。写真はない。 富士宮焼きそばはうまい。富士宮焼きそばにはコシがある。 大室山山頂の眺望は茫洋として、逆説的に世界の限りあることを知る。カルデラを臨んで食う団子がまたうまい。 引き続く自粛生活で、想像の世界へ無限に

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          教育の場における権威主義

          教育の方法論ときどき,野球をやっていた小中学生時代を思い出して暗澹たる気持ちになる.自己肯定感の低い大人たちが指導という大義の下に怒鳴ったり走らせたり,ただでさえ異常なことをあろうことか子供に対してやっていた.何より誰もそれを咎めなかったことが本当に気持ち悪い.このような不条理は残念なことに決して特殊な経験ではなく,多くの場所で見られるだろう. 抑圧された人間は不安定なパーソナリティを形成し,その不安定さゆえに他人に抑圧を強いてしまう.抑圧は新たな抑圧の構造を産み出すのだ.

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          個人の責任能力と法律について

          1. 自由意志は存在しないこと本来人間の責任能力などについて語る場合には、まず認識について、あるいは認識以前の問題から論じねばならないが、それらの論考は別の記事に預けるとしてここでは「人間に自由意志は存在せず、すなわち責任能力も備わっていない」ということを前提にする。 とはいえ、自由意志は存在しないという主張は刑法の前提を覆してしまうものであるから、一般には受け入れ難い内容であるかもしれない。概して説明すると、意志による行為を素因的に分析したとき、究極的にはその行為の有意な

          個人の責任能力と法律について

          構造的虚無

          私は今ノートパソコンを使って文章を書いている.文章を書いているという事実は確かに存在し,これを認識することができるから主観としての世界は実存する.また,主観が存在するという事実は事実それのみが存在することはできないため,客観としての世界の実存は裏付けられる. 世界はあまねく全ての事象を含有する.世界は部分を有し,大きさを持たない.それゆえに展延性を有さない.一方で,主観による世界は展延性を有する.世界に実存する複数の部分は,部分それ自体と相互に影響しない.部分は世界を部分の

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          自由意志考察〜その1

          自由意志はあるか。意思決定には生まれてからその瞬間に至るまでのあらゆる要因が影響しているから自由意志は存在しないと仮定しよう。すると意思決定は究極的には論理的に説明し得るはずである。もしすべての要因を網羅し、あらゆる影響を計算し得るなら、なるほど、自由意志も人格も存在しない。 将来人類がすべての要因、すべての影響を計算し得る世界に辿りついたとして、それでもなお論理的に説明できない事象があったとすれば、それこそが自由意志であり、人格ではないだろうか。したがって人間に自由意志や

          自由意志考察〜その1

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          「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」  例えば。例えば、僕ら人間と昆虫は知覚できる色(正確には電磁波であるが)の範囲が違う。世界それ自体は実体として存在するけれども、生物は認識の下でしかそれを再構築することはできないから、人間と昆虫は同じ地球という舞台にいながら異なった世界を生きている。 誰にも会うことのない最近、トーマス・マンの『魔の山』の一節をよく思い出す。 「一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは時間をひきのばして「退屈なもの」にするか

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