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ドストエフスキー『罪と罰』を読む その2

『罪と罰』下巻に入り、また数ヶ月放置していた。たまたま太宰治の『人間失格』を数年ぶりに読み返したところ、主人公の思案の中にこの小説のタイトルが出てきた。思うに長編小説を読み切るには、きっかけと勢いが必要である。300ページ以上を残していたが、週末の3日間で読んでしまった。本は読みかけにして数ヶ月も放置していれば、普通、内容は頭から抜け落ちて彼方へ飛んでいってしまうけれど、今回は2度読みかけて挫折した3度目の読みかけであって、今回ばかりは最後まで読み切るぞという意思が、心の片隅に内容を繋ぎ止めていた。

本は読まれるべき時に開かれるのであり、主人に開かれるその時がくるまで、本棚で息を潜めて存在を隠している。案外、これはただの比喩におさまらず、認知科学的に妥当性のある所見かもしれない。『創造性はどこからくるか』という本によれば、ひらめきを必要とするような問題に対して、脳は無意識に処理を行い、問題の解決に向けて漸進している。つまり、意識的に問題に取り組まない時間、すなわち"あたため"の時間が、問題解決の重要な役割を担っているというのである。古典を読むことはあらゆる面で骨が折れる。時代背景も違えば言葉も古い。特にドストエフスキーの小説は思想小説の側面もあり、難解で、文章がくどく、日本とは宗教的な背景も異なる。この小説を読むことは、ある1つの問題に取り組むことだといえるだろう。すると、小説から離れた全く関係のないように思われる日常生活を過ごすことは、実は小説を読むための”あたため”の時間であり、複雑な内容を受け止めるための鍵となるのだ。本の主人は自身がその本を読むべきときを無意識に感じ取り、然るべきタイミングでその本を手に取るのである。

ともかく長い読書であったわけだが、確かにそれだけ長い時間をかけて読むだけの価値はあったと思う。月並みな感想であるが、人間心理の複雑さの記述においてこの小説は非凡である。少年漫画に代表されるような明瞭な正義や明瞭な悪は確かに魅力的であるが、”複雑さ”こそ自然的であり、複雑さこそに人間の魅力があると思う。ヒーローや悪役といった立場の明確な登場人物は、その立場をまっとうする理想的な存在であり、人間性に欠けている。そのような明確な立場をもつ人間像はラスコーリニコフの信念とともに、ソーニャの徹底的な愛の生き方、そのソーニャの信念の前に屈服し崩れ落ちたのではないだろうか。

新潮文庫出版の裏表紙の解説には「…強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書として不滅の価値に輝く作品である」と書かれている。また、『罪と罰』はときに実存思想の小説として位置づけられる。実存思想とは何か、人間回復、ヒューマニズムとは何を指すのかについて考えていきたい。

主人公のラスコーリニコフ青年は、思想による殺人を犯す。その思想とは次のようなものだ。

人間は《凡人》と《非凡人》に大別され、《非凡人》はある障害を、自分の思想の実行がそれを要求する場合だけ、ふみこえる権利がある。

彼によれば、例えばニュートンのような、社会に多大な影響を及ぼす研究者(《非凡人》)が研究を続けることを、あるいは発見を公表することを妨げられるようなとき、その障害を取り除くために他の人々(1人、100人、あるいはそれ以上)の生命を犠牲にする以外方法がない場合、その《非凡人》は障害となる人々を排除する権利をもつという。それは公に権利が与えられるというわけではなくて、自らの良心の声にしたがって、血をふみこえる許可を自分に与えるという。これが青年ラスコーリニコフの根本にある思想である。彼はまた、「1つの罪悪は数千の善行によって償われる」と信じている。このような思想的背景と、貧しい頼りのない境遇、貧しく献身的な妹への愛、熱病などのさまざまな条件のもと、彼は意地悪な金貸の老婆と、そこに居合わせたリザヴェーダを殺害してしまう。これが「罪」である。
一方でラスコーリニコフは、馬車に轢かれて死んだ他人の葬儀代を払ってやったり、なけなしの金をはたいて肺病の友人を助けてやったり、火事の現場から子どもを救い出したりなど、殺人とは対照的な行動をしている。これらの行動は、彼を【殺人を犯した悪人】として理解するならば、明らかに矛盾していて受け入れられない行動である。彼は一人の人間なのだ。

……….

ここまで書いて、また続きを書こうと思いながら随分長く放置していた。本来書きたかったことから逸脱し、蛇足になるかもしれないが、せっかくここまで書いたので、今の私が思う実存やヒューマニズムについて書いていきたいと思う。書きたいことはひとまず書き留めておくべきだ。

実存とは何か、自分の言葉で説明すると、安易ではあるが、実感をもった存在。自分が存在しているという実感。実際に私がその場に名前をもつたった1人の人間として存在していること。私がこれを書き始めた時に、見出し画像に自分が作ったちゃんぽん風肉野菜炒めの画像を設定したのは、たぶんそういうつもりだったのだと思う。つまり、ちゃんぽん風肉野菜炒めをつくって食べるという行為を通して自分の存在を実感したのである。おそらくそういうメッセージを込めたつもりなのだ。ただ提供された料理を食べるのと自分で作った料理を食べるのとでは違いがある。自分で料理を作る場合、どんな材料を使って、どんな順番で調理して、どんな味付けをするか、そういったことを考えながら実際に手を動かして料理が完成するのである。その結果それがどんな味で、うまかったのかまずかったのか、味付けが濃かったか薄かったかというようなことを、また実際に食べながら考える。ここには料理を作って食べたという実感がある。言葉で説明するのは些か難しい。

では対照的に実感をもたない存在とは何か。実感をもたない行動とは。ラスコーリニコフ青年の殺人と殺人に至る過程はこれにあたるのではないだろうか。思想に基づく行動は、自分の存在を離れてしまう。(しかしこの書き方は語弊がある。自分の信念に従って行動するとき、それは実感をもつ行為とも言える。)思想に依存するというか、思想が現実に接地していない、実感をもたぬ思想、実感をもたぬ言葉。思想が先にあって存在が後にある。

ソーニャの存在。言葉で何かを語ったのではない。長い時間にわたるその献身、存在で愛を語り、存在で思想を語ったのだ。意味は存在の轍である。

追記 : 2022年6月頃に書いたものです。

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