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「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」


 例えば。例えば、僕ら人間と昆虫は知覚できる色(正確には電磁波であるが)の範囲が違う。世界それ自体は実体として存在するけれども、生物は認識の下でしかそれを再構築することはできないから、人間と昆虫は同じ地球という舞台にいながら異なった世界を生きている。


誰にも会うことのない最近、トーマス・マンの『魔の山』の一節をよく思い出す。
「一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは時間をひきのばして「退屈なもの」にするかもしれないが、大きな時間量、とほうもなく大きな時間量が問題になる場合には、空虚や単調はかえって時間を短縮させ、無に等しいもののように消失させてしまう。」

  刺激のない時間は風化するのが早く、有機的な時間は密度をもって残り続ける。ある人にとって死ぬほど退屈で長く感じる時間はマクロでは病的に短縮され、ある人にとって時間が飛翔してしまったとでも感じるような内容豊富でおもしろいものは、実時間あるいは実時間以上の重みや幅を持つようになる。同じ時間軸にいながら、同じ時間感覚に生きている「だれか」は存在しないのだ。


 「各人にとって異なった世界——としての世界」のことを、ライプニッツの発明した言葉を使ってモナドmonadeと呼ぼうと思う。僕にとってのモナドは、世界のうちの、せいぜい10の30乗分の1くらいの大きさだろうと思う。取り得る選択肢が増えることによって、このモナドは実体的な拡がりを見せる。形而下の話であれば、「フランス語が話せればフランス人と会話できる」のようなことだ。ジュ・マペル。

  より厳密に表現すると、選択肢の増加には認知の実体化が伴うためにモナドが拡張される。上の例で言えば、『フランス語を習得する→フランス人と会話する→フランス人とフランス語で会話できるという、いわば想像上の認知だったものが実体化する→モナドが拡張される』という具合だ。僕にとって幸福とは、現在のところ、「取り得る選択肢が多いこと」であると考えているから、モナドが拡がることは幸福に直結する。

  もちろんモナドの内にも様々な形をとって幸福は存在しうるが、モナドの拡がりを好まなければ、価値基準は徐々に絶対的なものに変化していくから幸福の基準も絶対的なものになりかねない。これを「依存的である」というが、幸福とはそもそも相対的なものであるから、やはり「拡がること」に注意していたいと思う。

  モナドの拡張は、あらゆる手段をもって為される。例えば、新たな友人をつくったり、本を読んだり、旅行をしたり、あるいは身体性を高めることによっても伸展する。僕ら(モナド)と世界の間にプロトコルは存在しないが、世界を認識するためのインターフェースは無数にあるのだ。僕らはこうして「モナドを世界に近づける作業」を80年くらい続けて、ようやくその大きさを10の30乗分の7くらいにする。


 身体性を高める、こと。これは我々アスリートにとっては非常に重要なことだ。あるいは、音楽家とか芸術家とか、そういった類の人間にとっても同様だろう。我々はトレーニングによって、意思と動作の齟齬を限りなく小さくしていくことで、世界の端っこを捕捉し、実体化する。

  身体性の高い選手ほどパフォーマンスは高い。トップアスリートになればなるほど常人離れした身体性を有している。ランナーなら接地の感覚が、(これは僕にはどうにもつかめないのだが)スイマーなら水をつかむ感覚がある。彼らには、意思の動作としてのアウトプットに対する世界からの応答が、正しいかたちで返ってくる。アスリートにとって、世界と通信するためのインターフェースはからだなのだ。アスリートはからだというインターフェースを通して世界に信号を送り、応答と想定の誤差を修正することで世界を把握しモナドを拡張する。要するに、フィードバックしている。
(プロトコルがあるという点において大きく違うが、これは対人コミュニケーションとよく似ている。)

  そして、身体性は肉体にとどまらない。大谷翔平ならバット、ペーター・サガンなら自転車、フィンセント・ファン・ゴッホなら筆、は彼らのからだの一部に他ならないだろう。ひょっとすると我々の手足よりも彼らにとっての筆や自転車やバットの方が、身体性が高いかもしれない。

 ここで、アスリートの競技力と身体性が完全な比例関係にあると仮定しよう。(実際にも正の相関があると思うが。)身体性というのは連続なものであるけれど、便宜上例えば「3’40”/kmで10km走れる」人の身体性、「3’30”/kmで10km走れる」人の身体性というふうに離散的(段階的)に定義すると、自分の競技力以下の動作を選択的に実演できることから、高い身体性を持つことはパフォーマンスの幅が広いことと同義である。

 つまり、競技力と身体性の比例関係の下では、身体性を高めれば高めるほど(便宜上離散的な)パフォーマンスという選択肢が増えるために、モナドは拡張されていくのだ。(トレーニングのモチベーションは本来、これを原因とすべきなのではないだろうか。)


世界と通信するためには様々なインターフェースがある、と書いた。個人のインターフェースの数は当然一つではないが、その中でも最たるものというのはきっと存在する。西洋の哲学者ウィトゲンシュタインは、彼の著書『論理哲学論考』において、こう書いている。

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」


 一方僕なら、こう書く。


「私の身体性の限界が私の世界の限界を意味する。」

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