教育の場における権威主義

教育の方法論

ときどき,野球をやっていた小中学生時代を思い出して暗澹たる気持ちになる.自己肯定感の低い大人たちが指導という大義の下に怒鳴ったり走らせたり,ただでさえ異常なことをあろうことか子供に対してやっていた.何より誰もそれを咎めなかったことが本当に気持ち悪い.このような不条理は残念なことに決して特殊な経験ではなく,多くの場所で見られるだろう.

抑圧された人間は不安定なパーソナリティを形成し,その不安定さゆえに他人に抑圧を強いてしまう.抑圧は新たな抑圧の構造を産み出すのだ.現在自分は中学生に勉強を教えているが,自分の無意識下にもそういった負の構造が内面化されているだろうから,本当に気をつけなければいけないと思う.そのような勉強を教える場で自分はシステムに過ぎず,本来何かを教えることはできないということを,意識していなければ忘れてしまう.

極度に抽象化すると,教育の場において教師は生徒の質問に答えるオートマトンのようなものではないだろうか.つまり教育は本質的には機械的に行われるのではないだろうか.言い換えるなら「教師は勉強を教えるが勉強を教えることはできない」というような.だから子どもに何かを教えてやろうなどと気概を持つことは権威主義的パーソナリティの典型のように思う.

それならば今日の教育はAIが行うべきではないかという論には一理ある.しかし例えば勉強が苦手な子に対する場合や,生徒が言語化しにくい疑問への即応性については教える側が人間であるメリットはあるだろう.それに「教育用」と冠せられたプログラムが抑圧の構造を孕む危険性は,現状の人対人の場合と同じくらいあると思われる.では人間が努めて機械的に教育を行えば良いということになるが,人間同士のコミュニケーションは全て機械的にやってうまくいくわけではないというのが難しいところである.


「教える」とは

「教える」という行為について分析しよう.簡単のために教える側を教師,教えられる側を生徒と書くが,ここで述べられるのは教える側と教えられる側の関係についてであり,必ずしも教師と生徒との関係ではないことに留意されたい.

「教える」ことは本質的には生徒ありきで,生徒の要求(質問)に対する応答でしかないはずである.つまり応答の向きは教師→生徒だが,生徒→教師がまず最初にある.このとき要求は必ずしも具体的な言葉を必要としない.例えば塾に来た生徒はその日学校で勉強した単元を勉強するわけだから,教師は生徒から「教えてください」と直接要求を受けずともその単元の(もしくは先週の続きから)授業を始めれば良い.教師は生徒が塾に来たという事実を質問として受け取り,その応答として授業をする.このように具体的な言葉が人間のコミュニケーションでは任意であること,すなわち生徒の行為の解釈が教師側に委ねられていることで,その応答が生徒の真に望んでいるものと食い違うことがある.


教えることと権威主義

この食い違いは「自分を良く見せたい」だとか「生徒を従わせたい」だとかの教師の心理的・社会的要因が大きく関わる.教師→生徒の行為は本来なら生徒→教師の行為の応答として行われるはずであるが,教師は自らの要求を生徒に押し付け,それを生徒の行為に紐づけて合理化する.例えば「学校に来ているのだから先生の言うことを聞きなさい」というのは教師側の一種の合理化である.この合理化により食い違いが起こる.そのような食い違いを教育の場における教師→生徒の権威主義的行為であると捉えることができるだろう.

エーリッヒ・フロムは著書『自由からの逃走』の中で教師と生徒の関係を理性的権威,また奴隷所有者と奴隷の関係を禁止的権威としており,この2つは相対的なものであると書いている.前者は生徒の成長を目指す点で双方の利害が一致している関係であり,後者は利害が対立している搾取の関係である.実際には全く利害の対立のない教師と生徒の関係は理想的なものであり,奴隷所有者と奴隷の間にも利害が一致することはあるため相対的な関係であるというのだ.

教育の場においても,上に述べた食い違いが起こることによって理性的権威は容易に禁止的権威に陥ってしまうだろう.フロムが言う権威主義的パーソナリティは水に垂らしたインクが広がるように,実に素早く弱い自分の中に台頭してくる.権威主義的パーソナリティに由来する強制的な態度(フロムはサディズム的態度と書いている)は自己の不安定感や劣等感から起こる.これに打ち勝つには自分の価値を強く認めていかなければならない.またそれと同時に教育の場(教えるー教えられる関係)において特に禁止的権威に陥らないためには,教える側の人間が,自らの行為が自らの要求によるものではなく,まさに生徒に対する応答であるかを常に検証しなければならないだろう.

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