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ドストエフスキーを読む

ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいる。およそ1年ぶり3度目の挑戦。第3部、上巻の3/4くらいまで読んだ。主人公ラスコーリニコフのもとへ、愛すべき母と妹ドゥーネチカが到着したところまで。

ドストエフスキーはたびたび実存主義者として名前があげられるが、まだ何をもって彼が実存主義者とされているのかわからない。ドストエフスキーの小説の特徴として、人類のもつ普遍的なテーマ、すなわち神とか善悪とかを取り扱っていることがあげられるが、実存主義はむしろそのような普遍的なテーマは脇に置いておく立場ではないのか。同著『カラマーゾフの兄弟』には、主人公アリョーシャの兄イワンが無神論の立場から自説を繰り広げるシーン(大審問官という文学界では非常に有名らしい一章)があった。うろ覚えだが、イワンは「神の慈悲が何になる!」というような態度だったと記憶している。読んだ当時はまだ実存主義に出会っていなかったから結びつかなかったが、今思えばいかにもである。この無神論者のような登場人物にドストエフスキー自身の思想を垣間見るということなのだろうか。『罪と罰』も読み進めていけば神についての議論が展開されていそうである。今のところはサスペンスとして読んでいる。

『罪と罰』は非常に有名な文学作品であるが、何がおもしろいのか、何が素晴らしいのかと聞かれれば言葉に詰まってしまう。ぶっちゃけ東野圭吾の方がおもしろい。それでもなんとか評論家めいた感想を書くのであれば、「馬が殴り殺されたことにひどく心を痛めた青年が、一方で殺人を犯してしまうというような人間心理の複雑さの記述」について特筆する。しかしこれも受け売りのようなものだ。

こういう長くて難しい小説を読むときに私が考えているのは、教養とは何かということだ。教養は蓋し、高度な言語ゲームであるのだろう。「高度な」というのは、言語ゲームを構成する単位の言葉それ自体もある文脈において語られているということだ。すなわち、ここではウィトゲンシュタインが提唱した「言語ゲーム」という言葉を知らなければ、文章が突如難解なものに変わってしまうのと同じ具合である。私は「言語ゲーム」という言葉を、「言葉はある文脈において語られている」という意味で解している。つまり極めて教養的な文章とは、ある文脈において語られている言葉が他のある文脈の中で秩序だって並べられており、それがまた新たに文脈を構築しているような文章のことをいうのだ。

そういうメタ的な文章はやはり難しい。東野圭吾の方がおもしろいと感じるのは直接的で読みやすいからかもしれない。しかし、直接的なものは直接的なものでおもしろくても、文脈を踏まえた邂逅の深い感動を我々は知っている。たしかにコード進行を知らなくても音楽は楽しめるし、印象派を知らなくても自分の好きな絵画を見つけることはできる。ドストエフスキーを≪読む≫ためのチャネルはなんだろう。

次はもう少し本文を引用したい。

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