個人の責任能力と法律について

1. 自由意志は存在しないこと

本来人間の責任能力などについて語る場合には、まず認識について、あるいは認識以前の問題から論じねばならないが、それらの論考は別の記事に預けるとしてここでは「人間に自由意志は存在せず、すなわち責任能力も備わっていない」ということを前提にする。

とはいえ、自由意志は存在しないという主張は刑法の前提を覆してしまうものであるから、一般には受け入れ難い内容であるかもしれない。概して説明すると、意志による行為を素因的に分析したとき、究極的にはその行為の有意な原因を特定し得ない、という考えがこの主張の元になっている。

一方で、実際的な話をする場合には自由意志を仮定したい。何となれば、自由意志を仮定した方がうまくいくからである。人間には自由意志がないという前提に立ったとき、法(特に刑法)は全く力を失ってしまう。犯罪を犯した者がいても、誰も彼を咎めることはできない。しかしこれでは生命の保障がされないために社会の結合が緩んでしまう。共同体が社会として機能するためには、やはり法が効力を持つべきなのだ。法が効力を持つためには、個人が責任能力(自由意志)を有していなければならない、というわけである。要するに本記事では、自由意志はそもそも仮定に過ぎないが、「人間には本来自由意志があって、自由意志を仮定している」という考えではなく、「実は人間に自由意志は存在しないが、自由意志を仮定している」という発想の下、法律の及ぶ範囲について考える。


2. 生命の保障としての社会契約

人々は自然状態から結合して共同体を形成する際に、自らが社会(他人)の安全を脅かすような場合には刑を課されることを承諾し、同時にまたこの約束によって生命の安全を保障される。社会の安全と罪人の安全は両立しないのである。もし他人の安全を脅かす存在に何の制限も設けられなければ、人々の安全への不安から約束は脆弱なものとなり共同体の結合を維持できなくなってしまう。法がその社会の秩序を保つための制限の役割を担っていることは言うまでもないだろう。

では、法は犯罪者に対してどこまでその力を行使できるだろうか。そのような社会契約を結んだとしても、法が本質的に内包する暴力的な側面を拭い去ることはできない。法による暴力はどの程度まで正当なものとして認められるだろうか。

自由意志があるという考えの下では、たとえ極刑であっても、罪に対するすべての刑罰は応報である。社会契約を結ぶ際に自然状態でのあらゆる権利を譲渡しているのだから、法によって生命の権利を剥奪されてもこれは当然の帰結である。(特に極刑について考えると)人々は社会契約によって今日まで安全を守られてきたのであるから、生命の権利はたんに自然の恵みだけではもはやなく、社会(国家)からの条件付きの賜物なのだ。社会が定めた法が死を命ずるのであれば、市民は死なねばならない。

しかしこれは、人間は自由意志を持つとした上での社会契約説である。人間は自由意志を持たないとした場合、罪は過失・故意を問わず人間の責任能力を超えた行為となり、応報を受けるべき因果は消滅してしまう。その場合、罪と人権(特に生命の権利)は独立であると考えられるだろう。だが、これでは安全が保障されない。

法の最も重要な部分は社会の秩序を保つこと、すなわち共同体の安全を確保しその結合を維持することである。然らば、これはただ罪人の隔離によって達成されるのではないだろうか。


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