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涙で歪む満月

気に入らない出来事に出くわした時にいつもそうするように、一樹は行きつけのバーでビールを胃に流し込んだ。ビールの冷たいアルコールが胃に染み込んでいくのを感じながら、彼は今日の出来事を忘れようとしている。彼がいつもより早いペースで酒を飲みほしていくのを見て、気さくなマスターは、今日何かあったの?と尋ねた。待ってましたと言わんばかりに、一樹は、実はさぁ、と言って、嬉々として事の顛末を語り始める。

一言でいえば、一樹が仕事でミスをして上司にひどく怒られたという、ただ単純にそれだけの話だ。一樹は控えめに言っても話が長く、ひそかに同僚からは疎ましがられている。普段の明るいキャラクターとは裏腹に、ちょっと繊細な部分のある彼は何となくそのことを勘づいており、こうしてお金を払ってマスターに愚痴を聞いてもらっているのだ。

彼は自分の無能さを自虐的にマスターに語り、マスターも半分笑い話として受け止めながら、まぁそういうこともあるよね、と言って一樹をフォローする。アルコールが脳に回り始め、気分がよくなってきた一樹は、そうっすよねぇ、しょうがないっすよねぇ、と周りの客より少し大きめの声でしゃべりながら、ガハハと下品な笑い声を立てた。マスターに気持ちよく話を聞いてもらっていた彼は上機嫌になり、今日の自分の失敗をその上司に責任転嫁しはじめた。上司の悪口で勢いに乗った一樹は、今日初めてこのバーに一人でやってきたという、20代後半の男性に無駄に絡み始める。困惑するその若者をよそに、先輩面をしたい一樹はその若者に一杯カクテルをおごり、半ば強制的に酒を勧めた。すみません、ありがとうございます、という声とともに若者が浮かべたひきつった愛想笑いを、好意的なそれと勘違いした彼は、その様子を見てえらく満足げな表情を浮かべている。

ふと店内の時計に目をやると、いつの間にかかなり長居していることに気づいた一樹は、そろそろバーを後にすることにした。マスターから、また来てね、と声をかけられると、一樹は、オフコース!、と普段決して使わない英語を使ってマスターの声に応える。最後の去り際に、その若者になれなれしく、また会おうぜ、と声をかけ、一樹は大きく手を振った。

バーを出ると、2月の冷たい空気が一樹の体を包んだ。駅から少し離れた細い路地を歩いていると、とても静かで、先ほどまでの楽しい雰囲気が消え、一樹は少し物悲しい気持ちになる。何気なく夜空を見上げ、そこにきれいな満月が浮かんでいるのを認めると、彼は少し冷静になって今日の出来事を思い返し始めた。仕事での失敗、自己嫌悪を経てからの、気心知れたマスターとの飲みかわす酒で、明日への活力を得る。こんな話を聞けば、どこか人情味にあふれた耳障りの良い話に聞こえるかもしれない。しかし、それは根本的には何の解決にもなっていないことに彼は内心気づいていた。本気で自分自身の失敗や欠陥と向き合ってしまうと、自分の精神が持たないことを本能的に察知し、自分自身の問題を上司の問題にすり替えることで自分は傷つかないようにと何とか体裁を保っているだけだった。一樹はあまりにも浅はかな自分の考えを責めはじめ、突然大声で叫びたい衝動にかられる。将来の明るい展望もない自分はこれからどうなっていくのだろうか、どうすればいいのか、彼には分らなかった。自分の眼前に広がる薄暗くリアルな未来を直視できず、彼はただただその場に立ち尽くすことしかできない。彼の周囲の人間は昇進、結婚、出産など次々と新たなライフステージに進んでいる一方、自分はこうして一人みじめに酒におぼれ、ぐだぐだと生産性のない愚痴をこぼし続けている現状を彼は嘆いた。自然と彼の目から涙があふれだし、何とかこぼれないように空を見上げると、先ほどのきれいな満月が光の屈折でいびつに歪んで彼の目に映った。

彼は今後好転する兆しの見えない自分の人生に半ば絶望しながら、入念に涙をぬぐった後、近くにあったコンビニに入って発泡酒を購入し、店を出るや否やすぐさま缶のタブを開け、自宅へ向かっていくのだった。

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