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問いを起点に動き出す先の所在ある静かさ:お寺で未来の秋田をデザインするシンポジウム振り返り

先週末の日曜は、秋田市にある日蓮宗久遠山法華寺さんにて開催されたお寺で未来の秋田をデザインするシンポジウムにスピーカーとして参加してきた。東京は冷たい雨の一日だったようだが、秋田はカラッと晴れた気持ちの良い一日だった。そんな梅雨前のイベント日和に約30名ほどの方々が集まった。

1.縮小高齢社会の未来をデザインするシンポジウム

人口減少率と高齢化率が全国で最も高い秋田県。死亡と転出の両方を合わせての数字だが、毎年約13,000人が減少している。これは武道館の座席数(14,471)に届きそうな数字。県人口に占める高齢者の割合は36.3%(2018年8月時点)で、全国の27.7%に比べて約9%ほど高い。大雑把に言うと、毎年武道館約1個分の人口が減りながら、高齢化率も全国値よりも10%弱高い、というのが秋田県の状況である。日本全体が縮小高齢社会であるなかで、そのフロンティアとなっているのが秋田であり、そこで“未来の秋田をデザインする”という趣旨のシンポジウムがお寺さんを会場に開催された。

シンポジウムのまとめについては主催者である法華寺副住職の齋藤さんのポストにおまかせすることとして、このnoteでは、このイベントにもうひとりのスピーカーとしてご参加頂いた松本紹圭さん(東京都神谷町光明寺僧侶・一般社団法人未来の住職塾代表理事・ダボス会議ヤンググローバルリーダー)のお話を聞いて気づいたことについて書き留めておきたい。

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2.関係性の再構築:お寺の変容する役割と存続戦略

松本さんのお話は、実践的な意味では、「時代と共に変化してきたお寺の役割と、これから将来的にお寺がどのような関係性を人々と築いていくことができるのか」についてだった。現代では多くの人々にとってお寺はお葬式や法事のときにお世話になるところで、それ以外のことで関わることはほぼ皆無である。しかし、過去には寺子屋のような教育の場であり、時にはお金を借りたり、社会のなかの様々なニーズを柔軟に受け止める多機能な社会インフラだった。これが時代の流れともに社会の仕組みが整っていったことで、最終的にお葬式・法事がお寺さんの中心的役割になった。

松本さんの講演のなかで印象的だったメッセージのひとつは、平成と伴に「檀家制度は終わった」というもの。お寺は檀家制度を通じて地域の家々とつながっていたわけだが、人々のお寺やご先祖様とのつながり方に関する意識が変容し、さらに永代供養などの新しいサービスが生まれたことで、次世代にお寺さんとの関係性を引き継がない・引き継がせない仕組みができあがった。これによってお寺が地域の家々と維持してきた関係性が途切れ、結果として檀家制度が終わったというわけである。檀家制度はお寺さん側から見ると数世代に渡って維持してきた独占マーケットなので、これがなくなることは、お寺の経営面においては死活問題である。さて、このような新しい場面(お寺さん側から見ると危機的状況)において何をすればよいのか。

松本さんは、お寺さんが新時代の令和に必要なものは「お寺の役割の再定義」であるとして、お寺が持っている関係性の価値を再定義し、時間をかけて磨き上げていくことを提案していた。

例えば最近流行りのマインドフルネスについて。マインドフルネスは、仏教の三学【戎(かい)・定(じょう)・慧(え)】の戎である規則正しい生活を身につけることなく場当たり的に続けても、効果は短期的なものにしかならない。マインドフルネスで目指そうしている全方位的な健康(身体的・精神的・社会的に良好な状態)には、平静を保つことの定、自己と世界を正しく見ることの慧の基盤になるものとして、良き習慣・人柄・しつけである戎が不可欠とのこと。

この良き習慣をはじめるきっかけをお寺が提供できるのではないか。ということで、松本さんは早朝にお寺に集まって掃除を一緒にする”テンプルモーニングという取り組みをはじめている。一日をはじめる前、出勤や通学の前にお寺に集まって、1時間のなかでお参りをし、境内の拭き・掃き掃除をして、最後にみんなでお茶を飲む。このテンプルモーニングに参加することで生活にリズムが出てくる。そんな良き習慣を定着させる機会を提供することで、人々とお寺の新しい関係性をつくっている。早速会場となった法華寺でも、シンポジウムの翌日の6月10日にテンプルモーニングが行われた。

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3."問い"を起点に動き出す

松本さんのお話の核は、時代の変化とともに過去に重要な社会インフラであったお寺が、今日的にはその存在意義を問われている、ということだった。そしてこのことは、松本さんの話のはじめかたにつながっていた。

松本さんの活動にはひとつ軸になる"問い”がある。それは「宗教・僧侶の役割とは何か」というもの。宗教は人の一生のなかにどのようなものとして存在するのか、僧侶はどのような役割を担うことができるのか。このような問いを探求するなかで、お寺の存在意義について考え、その経営について学び合う場である未来の住職塾を運営されている。宗派や所在地に縛られることなく、全国からお坊さんが集まり、お寺の社会的な役割や存在意義を考え抜き、個々のお寺の経営計画を作成する。このなかで参加者は今日まで自身のお寺が存在してきた意味や担ってきた役割を見直し、今後どのようなお寺としてありたいのかを計画する。この取り組みで実践されていることだけを見れば、それはお寺の経営塾であり、個々のクライアントであるお寺さんと一緒に考えることである。ただ、この経営塾の取り組みの中核にあるものは、松本さんの一個人としての「宗教・僧侶の役割とは何か」という問いがあるように思う。

ところで、松本さんに会ったことのある人なら誰もが抱く感覚だと思うが、松本さんはとても静かな人だ。それは話す声が小さいとか、あまり話さないとか、そういう静かさではない。むしろ松本さんはおしゃべりだし、話しているときによく冗談も挟み、人と話すのをとても楽しんでいる。私は、松本さんの持つ静かさは、松本さんの「所在ある様子」からきているものだと思う。所在ない人の忙しさや迷いの状況とは真逆の、そこに常に在る様子が松本さんにはある。それがゆえに松本さんがいる空間には凛とした空気が生まれる。人と話すときにまっすぐ相手の目を見ることや、質問に対して数秒考え込んで考えをまとめてからゆっくりとした面持ちで話し出すというような所作のこともあるだろう。けれど、松本さんのそれは、所在がある静かさだろう。

この静かさはどこからくるのだろう。自分が日頃関わりのある人たちとどう違うのだろう。これを考えてみると、それは動き出しの起点にあるものが、良質な問いであるかどうかではないかと思う。「宗教・僧侶の役割は何か」という自身の軸になる問いを松本さんは持たれており、その問いについて常に考えながら、同時に様々なことを実践している。別の言い方をすれば、状況を分析して理解を深める視点を持ちながら、同時に気づいたことを実践で試しながらその問いに体現的に答えていっているよう。例えばお寺の価値は関係性にあると見出したあとは、神谷町オープンテラス(カフェ)や先述のテンプルモーニングをはじめている。自身が探求している問いに対する答えを言葉に留めず、実際に新しいアクションにして連続リリースしている。個々のアクションだけを見るとそれらは個別のプロジェクトやイベントに見えるのだけれど、それらを支える軸としての問いがそこにはある。このように"問い"を起点に動き出すと、考え方や起こすアクションに一貫性が生まれてブレない。そして目指すところはその問いについての考えを深めつつ、同時に広めていくことになるので、行いとして丁寧さが大事になるようだ。

先に書いたnote("自分の好きなことを続けるだけも、実はけっこうつらくなるときがある")では、自分のワクワクを起点にすることが、実はけっこう疲れが出てくることだということを書いた。自分のワクワクが原動力になっているとき、状況が少し停滞すると、それは途端に自分に返ってきて辛さが出てしまう。逆にアクションを連続で起こせているときは、自分のワクワクが具体的な形になっている状況なので自己肯定感が増して気分はどんどん上がっていく。この往来はとても忙しなく、体力と精神力の両方をどんどん削ぎ落としていってしまう。一方で"問い"が起点であれば、派手やかさはなくても、静かに長く取り組むことができるのではないだろうか。

4.まとめ:所在ある静かさが深まる

秋田の未来をデザインするというシンポジウムで思いがけず気がついた動き出しの起点に何を置くのかという話。行動を起こす強い思いや原体験、ワクワクでなくても、「どうしてだろう?」というような小さな疑問(wonder)があれば、そこから起点となる問いを持つことができるようだ。

さて、このような問いを創りだす過程をデザインすることができるのではないか。その過程にはどんなタイプの気付きや学びがあるとよさそうか。また、生まれてきた問いがひとつの軸になりうるものなのかどうか、その質についてどのようにしたらわかるのだろう。良質な問いかどうか、どうしたらわかるのだろう。問いを立てる学びのデザインがそこには求められているように思う。

軸になる問い、それに対するその時々の答え、答えに対するアクション、の3つが上手く循環していると、活動量は多いのに不思議と忙しなさはなく、むしろ静かさが生まれるようだ。それは全体として軸になる問いへ答える手続きであり、何かを解決したり他者を変えようとする行動ではないからだろう。

最後に、問いの後に辿り着くのは新しい問いのようだ。答えが出ないということは不安なことなので、或いはこれは厄介なことかもしれない。ただ、そうして新たな循環を繰り返していくことで、ますます"所在ある静かさ"が深まっていくように思う。


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