『探究』をめぐって 2.「教える」立場と「はじまり」の理論
國分功一郎は『中動態の世界』において、カント流の主意主義を拒否しながらも意志の可能性を問い続けたアーレントに魅力を感じたと言っています。それはアーレントが「はじまり」に拘り続けたからだといいます。
私はこれを読んだとき、もう30年近く前に読んだアーレントの文章を思い出しました。どこで読んだのか覚えていないのですが、『革命について』かもしれません。新生児の誕生について書いた文章です。子供が生まれると言うことは、赤ん坊にとっての世界の「はじまり」というだけではなく、新たな人間を受入れる世界の「はじまり」でもある、という趣旨の文章です。世界内存在というハイデガーの概念を使っているのですが、とても美しい、感動的な文章で忘れられませんでした。新たな子供が世界に迎え入れられるということは、それは新たな世界の「はじまり」であり、政治的自由(モンテスキューのいう)が追加される事象そのものを意味していました。
革命とは、アーレントだけではなく色々な人が言っていますが、もともと天体の運行規則の比喩で、宇宙史的な構造を示す言葉でした。フランス革命だって始まったときはそうだったのです。それが新たな時代の「はじまり」を意味するようになったのは、フランス革命が変質していったからです。
赤ん坊が生まれてくるという事態だって、それはこれまでの両親の遺伝子や生活様式、そしてそれらを取り巻く社会史の結果でしかない。ある事象があるのには、必ず原因がある。それなのに、それを「はじまり」と呼ぶのは、そうした因果をすべてそうした事象そのものの外部に置くことです。つまり、これは神の立場、「教える」立場に立つことを意味しています。スピノザは、後に触れるように自己原因性としての神の外部性を語りつつ、それを自然そのものに内在させました。それは赤ん坊の誕生が外部としての「はじまり」であるとともに、世界に内在しているようなものとしてしかあり得ないことに似ています。
柄谷行人が『憲法の無意識』で主張するように、もしも日本には江戸時代から埋め込まれた平和主義が無意識的な構造としてある、というのであれば革命は必要ではない。何も新しい「はじまり」は必要ないからです。逆に、平和主義の「はじまり」には革命が必要だというのであれば、その人は「教える」立場に立つしかない。意識を相手にするしかないからです。結局のところ、左派と右派の違いは革命を必要だと考えるか否か、つまり「はじまり」が必要か否かでしかないのかもしれません。そうであれば、與那覇潤が『平成史』で主張するように、このとき柄谷は右派の軍門に降ったと評価できるのかもしれません。
しかし、より根本的なのは、仮に右派が「革命は必要ない」と主張したいのだとしても、『探求』の柄谷が言うように、彼はそのためには「教える」立場に立つしかない、という点です。つまり、ここで柄谷は、相手が無意識であると意識であるとに係わらず、自説を主張するならば「教える」立場に立つことが必要だといっているからです。柄谷はここで、無意識であると意識であるとに係わらない、そうした内面を持たない他者を相手にしていると言って良い。このことを柄谷は外面的な他者性と呼んでいます。もちろんこのことは、左派であると右派であるとに係わらず、「教える」立場に立つことがあり、「はじまり」がある、と柄谷が考えていたことを意味しています。
アーレントがどれほどカント的な主意主義を否定したとしても、彼女は同時に意志の可能性を論じざるを得なかった。なぜなら、彼女は書くことを通じて「教える」立場に立ち続けたからです。それはアーレントが内面を持たない他者を相手にしていたことを意味します。おそらくアーレントがいう「はじまり」とは、内面を持たない他者を相手にしたときに生じるものであり、その意味で「教える」立場にたつことによってのみ、生じるものなのだと思います。
「教える」立場は、内面を持たない他者を相手にすることで、外部としての他者性を保持しますが、実はこれだけでは「はじまり」は生じません。「教える」立場に立つとは、同時に「教える-習う」という関係性に巻き込まれることを意味します。教師はいつでも生徒からの厳しい視線を意識していなければならない。こうした意識が、たんに外部にあることを超えて、「教える-習う」という関係性に彼を内在化させる。「はじまり」とは、新たな関係性の「はじまり」なのです。
そもそも國分功一郎は中動態の研究から主意主義を否定するに至ったのですが、古代語の態は中動態しかないわけではなく、中動態と能動態とがあった(受動態はなかった)のです。古代語の世界でどれほど中動態が力を帯びていたとしても、能動態を消し去ることはなかった。私は、この古代語における能動態がどのような意味を持つかについて言及することは出来ません。國分功一郎はどうか知りませんが、そもそも私はそんな知識を持たないからです。しかし、古代語においても、何らかの能動性が残存したことは言を俟ちません。
中動態とは、「雨が降っている」というように、主語である「雨」が述語である「降っている」という状態に巻き込まれてあることが表現されている態のことです。ここで、主語と述語は相関する一つの世界を表わしています。主語述語もこの世界に内在しており、ここに外部はありません。しかし、「雨は降る」という文が能動態としてあるならば、この文はいわば天上にある雨が下界に降りてくるような動作を表わしていることになるでしょう。つまり、この世界、つまり下界には外部があるのです。古代語において中動態の事例が豊富にあるからといって、それが外部のない世界を表現する態しか持たないわけではなかったことは、その世界にも何らかの「はじまり」があったことを示唆している気がします。
資本主義論においては、「はじまり」の理論は、イノベーション論やアントレプレナーシップ論において顕著になります。このことは、資本主義経済におけるイノベーションやアントレプレナーシップという形態が、「売る」立場に立つことによって、外部としての他者性を保持しつつ、「売る-買う」という関係性に内在することを意味しています。
たとえば、サラスバシーは『エフェクチュエーション』において、起業段階では起業家が彼の事業に強い関心を寄せる仲間たちを集めることがあるが、彼らはその事業において資本家として参加するか、技術者として、代理店として参画するか、そうした役割は未分化である、といいます。ここには、未だ商品交換、つまり「売る-買う」という関係はほとんど存在していないのです。しかし、起業家とその仲間たちは、「売る」立場に立つことによって、これらの役割機能がグループの中で分化を始め、構成員は「売る-買う」という関係、つまり商品交換において固有の役割を担うようになる。いわば、「売る-買う」という関係性に巻き込まれていく。具体的には、このグループの中で「初めての顧客」が生じるのです。ある者は資本家として、別の者は技術者として事業に参加するようになると同時に、また別の者は代理店となり、この商品を購入することになるのです。サラスバシーは、こうした現象を起業段階の特徴として報告しています。
こうした現象は、市場と商品を、あるいは売り手と買い手を分離し、市場ニーズに合わせた商品を開発してそれをいかに顧客に販売するかといったマーケティングに典型的な思考とは、決定的に異なっています。マーケティングにおいては、売り手と買い手がどこまでも平行線で、これが一致することはないからです。これに対して、エフェクチュエーション、あるいはイノベーションとは、商品ばかりではなく、市場を作り出す能力を意味しています。それは「はじまり」の能力であり、アントレプレナーシップと同様に新たな世界の「はじまり」を告げるものにほかなりません。サラスバシーが、エフェクチュエーションをマーケティングに対峙する概念として取り出すとき、彼女がこうしたことを考えていたことは間違いありません。
柄谷行人は『探求Ⅱ』の「スピノザの幾何学」という章で、スピノザは実体(神)を自然における無限の様態の原因と定義したことによって、外部と内部の対立を無にしたと書いていますが、まったくその通りです。実体を無限定というような経験的表象ではなく、観念としての無限と定義することによって、かえって外部と内部、個人と社会、精神と身体の対立のようなものを無くした、と書いています。これは、スピノザにおいては神を外部に置くと同時に、自然に内在化させたことを意味しています。「はじまり」とは、「教える」立場に立つことによって、外部としての他者性を保持しつつ、「教える-学ぶ」という関係性に内在することなのです。
(筆・田辺龍二郎)
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