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「障害のことを忘れてしまった」というポーズについて:ナイトクルージング

昨日、恋人と映画『ナイトクルージング』を観に行った。宇多丸さんのラジオ「アフター6ジャンクション」で勧められていて、気になっていた映画だ。
 
生まれつき全盲の加藤秀幸さんがSF映画を製作する様子を、加藤さんの友人で映像ディレクターの佐々木誠さんがドキュメンタリーとして記録したのがこの映画。昨日はたまたま舞台挨拶も聞くことができてそこで知ったのだけど、佐々木さんに「視覚障害者が出てくる面白い映画をつくってほしい」という依頼がまずあり、お涙頂戴的じゃないようなものにしたいけどどうしようかなと考えた結果、この作品が生まれたらしい。

恋人お手製のキーマカレーをたっぷり食べてから映画館に行ったため時々うとうとしてしまったのだが(こらこら)、新しい発見がたくさんあり、自分の知覚の外に出てみたい人に勧めたい映画だな、と思った。

視覚以外で「顔」や「色」の話をする

加藤さんは、出演俳優を選ぶとき、候補者の顔を触ってその形をたしかめて、決めた。

その前に、国立科学博物館(たしか)の研究者に話を聞きに行って、江戸時代の異なる職業の人の頭蓋骨(たぶん模型?)を触って、人間の顔の違いを手で確認していた。私としては、人間の印象は目で決まるような気がしていたが、研究者いわく、眉間から鼻のあたりで印象が決まるらしく、いささか意外であった(俳優のオーディションで、加藤さんが顔の上部を特に念入りに触っていたのはきっとこの話を聞かれたからだろうと思い、興味深かった)。

人の顔を触って、これは好みだ、とか、この形は好みじゃない、とか、イメージに近いとか遠いとか、どのように判断するのだろう、と気になった。

さらに、人間風のロボットを制作しているところにも加藤さんは見学に行き、ロボットの顔を触りながら自分でも同じ表情をつくったりする。自分の表情について、口のあたりがくっと上がったりするような感じはするのだけど、という加藤さん。そうか、加藤さんは、自分の顔が今どんな表情をつくっているかたしかめたことがないのか、と発見した。

この間行ったある講座で登壇していた方が、「大人って感情を表情にまっすぐ表現できない人が多いから、演技を習ってみるといいですよ、って言われたの」と話していたことを思い出した。私の表情は、周りからの見られ方について推測して鏡の前で少しずつ研究していった結果今のラインナップに落ち着いていると思われ、そうでなければ自分で自分の表情を更新することはなかったと思われ、表情って自分の持ち物なのに、不思議だなあ、と思った。

加藤さんが、色について調査したり考えたりするところも興味深かった。

加藤さんは、SF映画の主人公の服の色を赤に決めるのだけど、それは加藤さんが赤い服が似合うとよく言われるから、だと言う。

加藤さんが色の専門家に話を聞きに行った際、専門家は、上から見ると太陽マークみたいな形をしている、立体的なカラーチャートを見せ、
暗い色には重いイメージがあって明るい色には軽いイメージがある、それでボーリングの球は暗い色でピンは明るい色で塗られている、というような話をするのだけど、
色を言葉で説明しようとすると、なんて難しいのだろう!とびっくりした。

自分の中にないものについて知ろうと思うとき、自分の中にあるものを使いながら説明してもらえると少しばかり理解しやすくなるけれど(例えば、英語の発音について「アとエの間の音」みたいに説明してもらうとか)、色に似ているものって…よくわからないものなあ。

「障害のことを忘れてしまった」というポーズについて

今回一番考えたというか、自分の宿題になったのは、このことだった。

大変アンテナの精度が高い私の恋人は、「舞台挨拶でさ、プロデューサーの人が『見える・見えない、よりも、つくれる・つくれない、の違いのほうが大きいんです』みたいな話をしたとき、加藤さんがぐるっ、と顔を向けてたよね、その人の方に。いや、見える・見えないの違いはさすがに大きいでしょ、って思ったわ」と言っていた(私は全然気が付かなかったぜ)。

多くの人は、「障害のある人には、なるべく失礼のない態度で接したい」と思っていると思う。私もそう思っている。

でもこのことが、すごく難しい。

障害があることを忘れた、とか、障害なんて大したことじゃない、って話は、「失礼じゃない」姿勢を示すために語られがちなことだと思うのだけど、結局、障害のある人を「普通の人」に近づけることが、目的みたいになってしまっているような。
(そもそもみんな、多寡の違いこそあれ、部分的には普通じゃない。普通の人、というのは幻想)
「障害なんて、なんでもない!」と、障害のある人が直面している「もどかしさ」を矮小化してしまうことは、違うような気がして。

前に、株式会社ミライロの薄葉幸恵さんが、「障害は環境がつくる」と話されていたのを思いだす。
(これも、たしか薄葉さんが使っていた例えだったと思うけど)右利き向きに世界がつくられているから左利きの人がやりづらいのと同じように、目が見える人向けに世界がつくられているから目が見えない人はやりづらくて、そのことをなかったことにしてしまったら、世界は変わらなくなってしまう。

たしか、本『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の中で、目が見える人を4本足の椅子、目が見えない人を3本足の椅子にたとえて、それぞれが別のバランスで成立しているんです、といったことが書いてあった気がするのだけど、3本足でも4本足でも、いろんなバランスの取り方をしている人が、それぞれそんなに不便にならずに生きていけるような世界ができたらいいよな、その違いを、「みんな椅子です!同じです!」と一緒くたにするのではなくて…なんて、考えたりした。

【以降は、テキストの削りかすです】
・あと、「障害がある人は別の特別な何かを持ってる」的な考えも嫌だなあ。視覚障害をもつ人が、耳が鋭くなくたっていいじゃんね。視覚障害をもつ人の映画が特別な表現じゃなくたっていいじゃんね(←この話は映画でもちょっと出てくる)。
ギャル(あるいはブス)は優しい論の不自由さに通じる話。

・アップリンク(渋谷)で観たのだけど、アップリンクの鑑賞マナー啓発CM(?)、ひらのりょうさんが描いてるんだね!!え、この顔の描き方は…と思って、最後ガッツポーズした!!

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